『心のざわめき』
潮騒のように夜の森の揺れる音がする。
新月の夜は沈黙がしんしんと降る。そして満月の夜は――そう今夜は、目に見えぬなにかの囁きが夜に満ちる。生命であり生命でないもの。意思であり意思でないもの。
《天秤の憩い》は迷いなく森に踏み入った。
容貌は若い青年。上背もさほどなく非力な青年と見えた。少年期から抜け出たばかりの。
柔らかな金髪が羽毛のようで、顔立ちを縁取る。瞳は灰色がかった緑だが、この森のなかでは彩りまでは判然としない。
獰猛な獣も魔物も棲むこの森で、彼はあまりに頼りなげだったが、本人はまったく気にした様子もない。
《天秤の憩い》は魔術師だ。
魔術師の力を見分けるのは、簡単である。
かれらは、己れの力を隠せない。力が強ければ強いほどに、かれを中心とする空間に負荷がかかる。空間が違和に軋むのだ。
《天秤の憩い》の周囲に、そんな威圧はまったくなかった。それでも、彼に襲いかかる獣も魔物もいなかった。
満月の夜。
大陸の中央に横たわる魔の森に、女神が降りるという。
女神。神と名づけられていてもそれが本当は何であるか、知る者はない。
世界を創った《先坐獣》、地上を統べる《兇上帝》、死者を赦す《天聖魂》。この三柱を神統とする昔ながらの神話のほかにも、この世界には様々の神が伝えられる。
しかしそういった伝承や、あるいは新興の教理を説く教団で語られることはほぼないのがこの女神だった。
《天秤の憩い》はその泉まで迷いなく進んだ。迷いなく、何の邪魔もなく。
優しげな眼差しで泉を見ていた。
泉の周りだけ、遠慮するかに樹々は生えていない。月明かりは遮られることなく泉にそそぐ。
淵に立ち、魔術師ともみえぬ魔術師は、囁く。
「いのちでありいのちでないもの。こころでありこころでないもの。かみでありかみでないもの」
魔術師は本来、力の行使に呪文を必要としない。
だがこの囁きは呪文を思わせた。
「天に満ち、地に満つ。天に空ありて地に虚ろあり」
月あかりのもと、泉は何の変わりもない。
「ありてなきもの。存在にして非在なるもの」
「もうおよし」
不意に女の声がした。
泉に波紋がひろがる。波紋の央心に女はいた。
「そちの力でそれ以上呼ばうな。身がもたぬ」
「それは失礼」
本心の知れぬ《天秤の憩い》の詫びだ。
泉の女神――森の女神は魔術師を見やる。
「さて。用件を申せ。そちのような魔術師と域を同じゅうすると命も削れる」
不快を女神は隠しもしない。むろん、それでこそ神というものだ。
「では、遠慮せず」
《天秤の憩い》はうすく笑みを刷いた。
「古き女神。あなたの、命を」
女神は微動だにしない。招かれざる客の、分不相応な望みなど始めから知っていたのだろうか。
そう、もちろん女神はこの魔術師の不遜な野望は知っていた。神ゆえに見透せる。
神ゆえに見透せる――、己れの、末路も。
心にひろがったざわめきは、神としての憤怒だったか。それとも圧倒され屈服する恍惚だったか。
《天秤の憩い》には、それ以上の呪文も脅しも必要なかった。
魔術師として、隠せないはずの魔力を完全に覆い尽くす彼の周囲の結界は、音ひとつたてずに女神にまで伸びていた。そして、音ひとつないままに、女神を喰らった。
森に風が吹く。
女神の最期の息吹だ。これ以後、森の獣が、魔物が、どうなるのか。女神の守護も支配も失って、死の地になるか。あるいは無法地帯となって荒れ果てるか。
「何ていうか……」
《天秤の憩い》は息をつく。
「手ごたえがもう少し欲しかったかな」
勝手な言い種を独りごつ。それだけだった。
3/15/2025, 11:47:29 AM