結城斗永

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「じゃあ、頼んだよ」
 そう言って去っていく部長の背中を見送った俺は、靴紐を結び直そうとその場にしゃがみ込む。そこで今日の靴がスリッポンだと気づく。
 大事な商談前には靴紐をきつく結びなおす――という俺の験担ぎが空振りに終わる。
「こりゃ、困ったね……」俺の頭上で声がする。「――今日は紐靴じゃないんだ」
 見上げた先にいたのは、同じ部署の鍋島先輩だった。
「今日は一日事務作業の予定だったんで……」
 そんな中で降りかかった営業命令。しかも相手は『営業泣かせ』で名高い鹿戸商事だ。正直言って荷が重い。
「俺も同行しよっか? 別に今日は商談入ってないし」
 さすが、営業部のホープ。マジ神――。
「いいんですか? マジで助かります」
「代わりに靴紐になってやるよ。って言っても横にいるだけだよ」
 先輩が冗談っぽく口にして子どものように笑う。それだけでも、少しは胸の重さが和らぐような気がした。

「――手短に頼みますよ」
 鹿戸商事の商談ブース。仕入担当の河内は、椅子に腰を下ろすなり、腕時計を見ながら冷たく言った。
「本日ご提案するのは――」
 俺はレトルトカレーの新商品サンプルを並べながら、商品説明を進めていく。
 河内は、用意した試食を一口食べただけで、固く両腕を組んだまま黙り込んでいる。
 タールのように遅く流れる時間と、鉛のように重い空気に押し潰されそうになりながら、俺は機械のように説明を続ける。
 隣に座る先輩は、俺の説明に時折頷く素振りを見せながらも、本当にただ横にいるだけだった。
 ひと通り説明を終えると、河内は「んー」と短く唸るような声を出したあと「なんか、パッとしないな……」とだけ告げて沈黙する。
「ご要望があれば、何でもおっしゃってください」
 俺の言葉にも河内は腕を組んだまま反応を示さない。

 暫しの沈黙を破るように、先輩がすっと口を開いた。
「そういやぁ、この間、他社さんとご一緒した時にですね、河内主任の目利きにとても関心なさってましたよ――」
「そりゃどうも……」
 河内の目線が先輩に向かう。
「――他のバイヤーとは見ているところが違うと」
 その言葉で箍が外れたのか、河内は固く結ばれた腕を解き、レトルトのサンプルへと手を伸ばす。
「――いやね、商品自体は申し分ないんです。市場のトレンドも踏んでるし、パッケージも奇抜で目を惹く。――ただね」
 河内は堰を切ったように饒舌に語り始める。
「トレンドってもんは、所詮一過性なんですわ。そりゃあ、流行りに乗れば売れるもんは売れるんでしょうが、うちはそこで勝負してないんでね――」
 俺はサンプルを手に取って、改めて眺めてみる。言われてみれば、それは巷にあふれるキーワードを寄せ集めて煮込んだような、とても陳腐なものに思えてきた。
「――仰るとおりです。それが聞けただけで今日は大収穫ですよ」
 先輩が笑顔で言う。河内は先輩の顔を真っすぐ見ながら言葉を続ける。
「御社の商品は、定番のオリジナルが一番いいですわ。もう長いこと扱わせてもらってますが、やっぱりあれに勝るもんはない――」

 鹿戸商事を出るころには、既に日が沈みかけ、空は朱く染まっていた。
「……本当に助かりました」
「きつく結ぶのもいいけどさ、たまには靴紐ほどいて裸足になってみるのもいいもんだよ」
 先輩の言葉が胸にジンと染みてくる。俺は身を固めすぎて、肌感で人と接することを忘れていたのかもしれない。
 ――と同時にふと疑問が浮かぶ。
「あれ……そう言えば、験担ぎの話、前にしたことありましたっけ?」
「いや。でも見てりゃ分かるっしょ。営業は人を見てなんぼだよ」
 そう言って笑う先輩の表情に、俺の心を縛る紐が解けるように思わず笑みが溢れる。

#靴紐

9/17/2025, 4:27:50 PM