結城斗永

Open App

 十月に入り、夏には涼を求めて通っていた喫茶店に暖かさを感じるようになってきた。
 店内に流れる微かなボサノヴァと、コーヒーとトーストの香りはあの時と変わらず心地いい。
 私は秋の柔らかい光が差し込む窓側の席に座り、いつものようにメニューを開く。
 まだ夏の余韻を感じていたくてアイスカフェオレを注文し、彼の到着を待った。

 私と徹(とおる)がこの喫茶店で出会ったのは七月の中旬。まだ夏の真っ只中だった。
 うだるような夏の暑さに耐えかねてこの喫茶店に飛び込んだ私は、カウンターに座る彼を一目見て恋をした。
 何度か通ううちに私の方からアプローチをして、二人の関係に名前が付いた。
 夏に始まった情熱的な恋は、秋の訪れとともに少し落ち着き、これから深まっていくだろう矢先、彼から十月付けで福岡へ転勤になると話を聞いたのが九月の初め。
 東京から福岡、地図上で見るよりもはるかに遠い距離。そして、あまりに唐突な遠距離恋愛のはじまりから、今日でちょうど二週間になる。

「美香(みか)、お待たせ」
 そう言って徹(とおる)が店に入ってくる。荷物の少なさがこうして会える時間の短さを物語る。
「ううん、来てくれてありがとう」
 二人の休みがたまたま合った平日、飛行機と電車を乗り継いで会いに来てくれた徹は、二週間前と変わらない笑顔を見せながらジャケットの上着を脱いで席に着く。
 徹の注文したホットコーヒーが運ばれてくる。立ちのぼる湯気がコーヒーの香りをまとって二人の間に満ちた。

「向こうの生活には慣れた?」
「全然、忙しくてまだ荷ほどきも終わらないよ。美香の方は?」
「あなたと会えないこと以外はいつも通り」
 二週間の空白を埋めるように会話が続く。自然と私の手が伸びて、徹の温かい手に重なる。同時に、私の心が彼の温かさで満たされていく。とても長く寂しかった日々がぐっと温度をもって思い出になる。
 外では黄色く色づく銀杏並木が秋の風に揺れる。行き交う人々が風に肩を縮める中、二人の空間は温かさに包まれていた。
 
 永遠に続いてほしいとを感じる時間ほど、どうしてこんなにも早く過ぎ去っていくのだろう。
 気づけば、彼のコーヒーはすっかり冷め、私のアイスカフェオレの氷も溶けきっていた。
 時計の針は午後四時を少し回ったころ。窓の外では、秋の陽が街並みに長い影を落とし始めている。

「そろそろ行かないと、飛行機の時間が……」
 徹が申し訳なさそうに言う。
「うん、わかってる」
 私は『行かないで』の言葉を飲み込んで、ただ笑ってうなずく。

 会計を済ませて外に出ると、夕方の風が一層冷たくなっていた。
 駅へ向かう道の途中、銀杏の葉が二人の肩にひらりと舞い落ちる。
 徹はその一枚を拾い上げ、少し照れたように笑って私の手のひらにそっと乗せた。
「またすぐ会えるよ」
 彼の言葉にも笑顔でうなずく。肩に回された手のひらが大きくて温かい。

 夕暮れの駅、改札の向こうに彼の姿が小さくなっていく。
 手を振る指先がかすかに震えるのは、風のせいか、それとも心の奥の寂しさのせいか。
 アナウンスの声にまぎれて、胸の奥で小さく「いってらっしゃい」と呟いた。

 秋の夕暮れは早い。空の色が群青へと変わっていく。
 街頭の銀杏並木には小さな豆電球の列が光り、街は既にクリスマスの気配を漂わせている。
 私は手の中の銀杏の葉を見つめながら、やがて来る冬を思う。
 ――マフラー、編んであげようかな……。
 次に彼に会うその日まで、今日蓄えた温かさをゆっくり編んでいこう。きっとそうしている間は、彼のことを考えている時間だから。
 私は彼の手の温もりとその姿を頭の中に描きながら、銀杏の実が香る並木道をひとりゆっくり歩いていく。

#秋恋

10/9/2025, 9:04:43 PM