誰か
軽い昼下がり。
陽も傾き始めて明日のことをふんわり考え始めるくらいの暖かな土曜日の午後。
平日は朝から晩まで噴水のごとく湧き上がる仕事を片付けているのだから休日はゆっくりと過ごしたいのだ。
そう思って奮発して買ったコーヒーメーカーにふぁさっと粉を落とし、スイッチを入れる。
ブーンと無機質な音の隙間から苦味のある香りが鼻をくすぐる。
やはりコーヒーの香りは好きになれない。どうしても鼻が異臭として認識してしまうようだ。
しかし穏やかな1人時間を楽しむには必要なものなので、鼻を噛んでごまかした。
次に本を取ってくる。
つい先日上司から貰ったものだ。
「君はまだまだこれから伸びる。私も若い頃はこういう本を読んで勉強したものだ。頑張りなさい」
と、言われデスクに置かれてしまった。
仕事のスキルアップのための本らしい。有名なコンサルティング会社に勤務している人が書いていて、仕事の極意!みたいなタイトルだ。
同僚は「読まなくていいだろ、そんなの」なんて一蹴していたけれど、きっと上司は私の将来期待してこの本を託したんだろう。
私としてももっと活躍して良い給料をもらえたら万々歳だ。ヒントみたいなのが載っているかもしれないので読んでみることにした。
それに休日にこんな本を読むのもまさにエリートらしくていいじゃないか。
パラパラとページをめくってみると「上司とのコミュニケーション」やら「優先順位の付け方」とか、確かに日頃仕事をする上で頭を悩ます事柄がズラリと書いてある。
なんだか急激に気分が落ち込んでいく。
さらに日が傾いて窓からの光が蜜色を帯びてきた。
今日はおしゃれな夕食を作ると決めていたのだ。先日イケメン俳優が得意だというカルパッチョを振る舞う番組を見た。普段は料理なんてほとんどしないので、それを見るまでカルパッチョがカッパの種類か何かだと思っていたけれど、なんだかとても美味そうで作ってみたくなったのだ。
スマホで検索してカルパッチョの作り方を調べる。
タイの刺身、トマト、コショウ、レモン汁、オリーブオイル、イタリアンパセリ、チャービル…
後半二つは聞いたこともない。
スーパーで買ってこようか。でもなんだかやる気が起きない。
ふと読んでいた本の文章が浮かんだ。
「準備不足はすべての大敵」
「やる気は気のせい」
今日はおしゃれで充実した休日を過ごしたくて、頑張っていたはずなのに…
頑張る…?
なぜ休日まで頑張らないといけないんだ?
コーヒーも本もカルパッチョも全部誰かの影響で背伸びしてやっただけじゃないか。
今日私のために私が好きなことは何もしていない!
「もしもし?」
「どしたの?」
「今から飲みに行かないか?」
「急だなあ」
相手はハッハッと豪快に笑った。
「いいよ?駅前集合な。暇してたからとことん付き合うぜ」
「やっぱお前と飲むのが一番だわ」
「当たり前だろ」
10/4/2025, 7:11:36 AM