NoName#s81

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消えちゃいたいの。

どうしてそんなことを言ったのか。そこに至るまでのことは、覚えていない。私は確か中学生だった。母もまだ四十代か。私の背丈も、とっくに母より高かった。
ずっとずっとずっと抱えてきたその気持ちを、どうして母に言ったのか、全然思い出せない。だって、絶対に言ってはいけないことだと、私は決めていたはずだったから。
誰にも、一度も、その言葉だけは言わない。母にならば、尚更。心配させるから。心配させる、だけだから。どうせ、私は、そんなことは実行しない。できない。だいたい、実行するしないでなく、「消える」ことは、不可能だ。私はもう、産まれてしまった。存在してしまった。それは変えられない。ならば、心配させるだけのそれを口に出すことは、してはいけない。当時の私はそう決めていた。そのはずだったのだ。なのに。
母は私を抱きしめた。硬い床にふたりで倒れ込んで、そのままずっと抱きしめあった。夕方で、部屋は北向きで、明かりはついていなくて、フローリングは暗いオレンジ色をしていた。母の体温を感じた。久々にだれかの体温を感じた、そう思ったことは、思い出せる。人の体温は、熱かった。私の涙も。
どうして泣いたのか、どうしてあんなことを言ったのか、母がそのあと何か言ったかどうか。それらは、思い出せない。
あのオレンジ色と、体温だけを覚えている。

それが何かを劇的に変えるとか、そういうことはなかった。想いを吐露したところで、私は暗がりから抜け出せないままだった。何年も。消えちゃいたい、は、消えなかった。でもそう思うたびにあの温度を思い出した。それをよすがに生き延びた。

あれから十五年は経つのか。
あの温度を思い出すことは減った。ほとんど、なくなった。今の私は、とっくに暗がりを抜け出している。消えちゃいたい、も、消えている。
あの時間を思い出さずとも、頼らずとも、生きていけるようになりつつある。でも、あの時間が、あの体温の記憶がなかったら、きっと私は今ここにいなかった。暗がりを抜け出すことも、なかった。

はっきり思い出せたあの温度も、今はおぼろだ。
あまり抱きしめなくなったぬいぐるみ。棚に飾る。それでもまだ、見守っていて欲しいと思う。

3/1/2025, 3:26:58 AM