『楽園』
自宅から車を走らせること、およそ1時間。海沿いの国道から山側の道に曲がり、ナビを頼りに細い道をしばらく進んだ先にその古民家はあった。
今はもうない祖父母の家を思わせるような、趣のある平屋。縁側とそこに面した庭がどこか懐かしい。とはいえ、よく見ると全体的にリフォームされているようで、玄関扉や門周りは割と新しかった。
道を挟んだ反対側には5台分の駐車場があったが、5月の連休ということもあり、すでに4台分は車で埋まっていた。運良く空いていた残りの1枠に、乗ってきた黒のファミリーカーを停める。そして、車から降りた俺は向かいの建物を眺めた。
古民家の前には立て看板がある。
『保護猫カフェ にゃごむ』
ここに来てまで、俺は尻込みしていた。今年で44になるおっさんの人生初猫カフェ。しかも今日は家族もいない、一人きりだ。
ちらりと横に並んだ車を見る。どう見ても若い人の車ばかり。自分だけ明らかに場違いだった。
やっぱりこのまま帰ろうか——
そう思ったとき、建物から人が出てきた。自分より一回りくらい年下に見える女性。エプロン姿だ。
その人と目が合って、俺はぎくりと体を強張らせた。なんとなく気まずくなって軽く会釈すると、向こうの女性がにこりと笑った。
「よかったら、どうぞ」
店の人であろう彼女にそう言われて、今さらもう後には引けなくなってしまった。
「どうも」ともう一度頭を下げ、思い出したように振り返る。車をロックすると、ピピッと高い電子音が静かな空に響いて消えた。
ここを知ったのは偶然だった。ほとんど猫を見るためにしか使わないインスタのおすすめページは、いつも猫が溢れていた。そこでこの猫カフェの存在を知ったのだ。調べてみると、思いのほか自宅から遠くない場所にあるとわかった。
「いらっしゃいませ」
玄関を入ると、さっきの女性が出迎えてくれた。彼女はここの店主だった。シンプルな服装に、猫がワンポイントで刺繍されたエプロンを身に着けている。ショートカットで、はつらつとした印象だ。
「初めての方ですよね」
「えっと、はい……そうです」
さり気なく建物内を見回すと、まだ猫の姿は見えなかった。一見すると普通のカフェのようで、見えるのはいくつかのテーブル席と、そこでカフェメニューを楽しむ客が数組だけ。
「猫たちはあの扉の向こうにいますよ」
視線の先、部屋の奥の壁には扉があった。その隣には大きな窓がある。ここからではよく見えないが、こっちのカフェ空間から向こうの部屋が覗けるようだ。
「うちはカフェスペースと猫たちがいる場所を分けているんです。基本的にはみなさん、カフェでドリンクなどを召し上がってから向こうに行かれます。でも中には、カフェだけを利用されるお客さんもいらっしゃいます」
なるほど、と思いながら頷いた。初めてで何もわからなかったが、ここはそういう仕組みになっているらしい。
「今日はお一人でよろしかったですか」
そうたずねられて、内心ドキッとした。それを悟られないように、おずおずと頷く。
「男一人でも構いませんか」
彼女は何も気にしていないようで、自然な笑みを浮かべた。
「もちろん、大歓迎です。では、ご案内しますね」
席に座ると、店主に代わってメニューを持ってきたのは、すらりとした若い男性スタッフだった。
「こちらがメニューです」
おそらく大学生くらいだろう。髪色が明るい。これは何色というのだろう。金髪ではなく、もっと白っぽい——銀色のようだ。服装はカジュアルなロンTにジーパン姿。その上から着ているエプロンは店主と同じものだ。
とりあえずコーヒーを注文した。ホットかアイスか迷ってアイスを選ぶ。今日は昨日より少し暖かい。
コーヒーを待つ間、さり気なく周りを確認した。続けて窓越しに向こうの部屋も見る。思った通り、店内はほとんどが女性客だった。お一人さまは他にもいたし、あっちにはカップルらしき男女二人組もいるが、男性一人客は自分だけ。どうにも落ち着かなくて、腹の底がむずむずする。
しばらくしてコーヒーを持ってきてくれた銀髪くんは、猫カフェの説明もしてくれた。カフェのドリンク代と猫スペースへの入室料は別。向こうの部屋は入室してから45分という時間制らしい。事前に調べた相場の範囲内で良心的な価格設定だ。
猫たちに触る前には、靴を履き替え、手の消毒をきちんと済ませなくてはいけないらしい。他にも注意点をいくつか聞いた。
「向こうの部屋に行かれるときは、声をおかけください」
そう言うと、彼は奥のスタッフルームのような場所に消えていった。
コーヒーの豊かな香りに誘われるように、カップに口をつける。ちゃんと豆から挽いて入れているらしく、想像以上に本格的だった。1つ空いた向こうの席に座る女子二人組のテーブルには、ドリンクだけでなくケーキがあるのも見える。カフェだけを目的にする客がいるのも頷けた。
ようやく少し心が落ち着いてきて、俺は視線を目の前の大きな窓に移す。距離はあるものの、猫たちの姿がここからでも見える。インスタでいくつか写真を見てきたものの、実際にそこに猫がいると思うと年甲斐もなく浮ついた気持ちになった。
いよいよ、ずっと夢見てきたことが叶うのだ。
もう十数年も前、俺は過ちを犯した。当時いい感じの関係だった今の妻に、嘘をついたのだ。
「お、俺も猫はあんまり好きじゃないよ」
小さい頃の経験がトラウマで猫が苦手だという妻に乗っかるように、ついそう言ってしまった。
「そうなの? じゃあ同じだね」
彼女の笑顔にホッとするだけだった当時の俺は、まさかこんなことになるとは思わなかった。あれから交際を始め、結婚し、娘が生まれて10年になる。俺は家族に「猫が大好き」だと言えないまま、ここまで来てしまったのだ。
連休中、間に出勤日が挟まった俺をおいて、妻と娘は二人で妻の実家に帰省した。一抹の寂しさを感じたものの、そこで俺はハッとした。これまで家族に隠れるように日々猫の動画を見漁っていて、いつか猫カフェに行ければなどという幻想を抱いてはかき消していた。だが、この機会。猫カフェに行けるのでは、と思ってしまった。
その考えが浮かんでから今日まで、ずっとドキドキしながら過ごしてきた。家族に作ろうとしている秘密。そして、自分一人で猫カフェに行こうとしている事実。家族を見送るとき、後ろめたさがないわけではなかった。それなのに——
一人きりの休日、足はここへと向いていた。せっかくここまで来たのだ。もう二度とこんな機会はないかもしれない。
コーヒーを飲み終えた俺は、意を決して立ち上がった。銀髪くんの案内に従って準備をする。いよいよ猫たちとの対面の瞬間だ。
ざっと見て、十匹前後いた。そこにも猫、あそこにも猫。まるで天国のようだ。柄や体格はバラバラで、客になでられている人懐っこい子もいれば、物陰やキャットタワーの上でじっと身を潜めている子たちもいる。
どうしていいかわからず、とりあえずそろりと端の方に向かい、腰を下ろす。抱っこや無理な接触は控えるように言われている。だから、自然と距離ができてしまった。
ぽつりと座るおじさん。猫が来る気配はまったくなし。そのまま時間だけが流れる。
どう見ても悲しかった。浮いている。たちまち逃げ出したい気持ちに駆られたが、まだほんの数分しか経っていない。
気を紛らわせるように、猫たちから視線をそらした。壁には猫1匹、1匹のプロフィールが書かれた紙が貼ってある。丁寧に手書きで作られていた。
「どの子か気になる子がいますか」
顔を上げると、店主の女性がいつの間にかそばに立っていた。
「えっと、どの子もかわいくて……選べないです」
そうですよね、と店主が笑う。
「ここは保護猫カフェなので、普通の猫カフェとは違います。この子たちはみんな家族を作るためにここにいるんです。そのために、私たちはどうやったらみんなの魅力が伝わるかを一生懸命考えます」
そう言われて初めて俺は理解した。ここは保護猫のカフェなのだ。この子たちはみんな、新しい家族に見つけてもらわないといけない。ここに来る人たちはただ猫たちと遊びに来ているのではなく、もっと真剣な理由で足を運んでいるのだ。
「すみません、そこまで考えていなくて。私は猫が好きなんですけど、うちは猫が苦手な家族がいて、だから飼うっていうのはちょっと……」
「あっ、いえいえ。いいんですよ。ここに来るお客さんは、保護猫を引き取ることを想定している人ばかりじゃないので。そういう人はむしろ少数派です」
「えっ、そうなんですか」
思わずそうたずねると、店主はうんうんと頷いた。
「もちろん、保護猫に興味があって来てくださる方も多いです。でも飼えるかは置いておいて、ただ猫たちと触れ合っていただくことにも意味はあるんです。ここで少しでも人に慣れておくことで、新しい家族が見つかりやすくなるので」
「……なるほど」
そんな話をしているうちに、奥の方で猫と触れ合っていたカップルが立ち上がった。もう終了の時間らしい。そんな二人とともに店主も部屋から出ていく。
また一人取り残されたと思いながらも、遠くにいる猫たちを順に眺めた。途中、見ていた猫がふわっとあくびをした。こうしているだけでも悪くない。むしろ、最高に幸せな時間だ。
そう思って顔がだらしなくなりかけたその時、膝に妙な感触を覚えた。とっさに視線を下げる。すると、目が合った。
真っ白い猫が膝の上に手を乗せている。そして上目遣いでこっちを見ている。
俺は動けなかった。手も、体すらぴくりとも動かせない。そうしている間にも、白猫は俺の膝の上に歩みを進め、そして丸まった。俺はちらりと横目で確認する。この子の名前は——ハル太。5歳の男の子だ。確か、ハル太はさっきまで向こうの隅で寝ていたはずだ。それが、今は俺の膝の上に乗ってこっちを見ている。
悶絶しそうになるのを必死にこらえる。こういう時はどうすればいいのか。なでていいのだろうか。今まで猫を飼ったことがないからわからない。小さい頃は親に反対され、大人になったら飼うと決めていたのに、間もなく妻に出会ってこうなってしまったのだ。
ハル太がじっとこっちを見ている。その視線でふと思い出した。ポケットに忍ばせておいたおやつを取り出す。チューブタイプの有名なやつをさっきそこで購入した。通常料金に含まれていない、課金アイテムだ。
開封しておそるおそる口元に近づけると、ハル太は端をぺろりと舐めた。反対の端をギュッと押すと、また、ぺろっと舌を出した。
おやつに夢中になっている間に、俺は反対の手でそっとハル太に触れた。嫌がられるかと思ったが、むしろハル太は俺の手に首をこすりつけるような素振りを見せた。
いつの間にか、心拍が上がっていた。興奮や高揚感に近い。至福だった。おやつを食べ終わっても、もっとなでてくれと言わんばかりにすり寄ってくる。なでると、気持ちよさそうに目が細くなった。
しばらくなでると満足したのか、ハル太は膝の上で目を閉じた。優しく背中の毛をならす。
そうしているだけで、気づけばあっという間に45分は終わっていた。
「今日はお越しいただきありがとうございました」
店主に見送られ、人生初の猫カフェ体験は幕を下ろした。最初にあった緊張や不安はすっかりなくなって、外に出ても夢心地が続いているようだった。
とはいえ、現実に戻らなければならない。
帰宅途中で粘着クリーナーを購入して、服についた毛をくまなく取る。そして、家についてからはすぐに服を洗濯し、そのままシャワーを浴びた。二人が帰ってくるのは明日だ。気づかれる心配はないだろうが——いけないことをしているようで、ついいつもより念入りに体を洗っていた。
風呂を出て、リビングへと向かう。ソファに腰を下ろす直前、玄関で音がした。
「ただいまー」
リビングのドアが開き、二人が入ってくる。
「あれ、お風呂入ったの? 早いね」
妻の手には買い物袋。途中でスーパーに寄ったらしい。
「あっ、うん。えっ? 帰るの明日じゃなかったっけ」
「明日、サキちゃんと遊ぶ約束したから、今日帰ってきたの」
サキちゃんというのは娘の親友の名前だ。
「そ、そうなんだ。ごめん、明日だと思ってたから気抜いてた……」
内心焦る気持ちをごまかしながらも、本音が出た。
「だと思った。ご飯もまだなんでしょ? 帰って作ろうと思って私たちもまだなの。作るっていっても、簡単なものしか作らないけど」
「いや、十分だよ。俺は今日もカップ麺のつもりだったし……」
妻は部屋に行こうとした娘を呼び止め、風呂に入るように言った。そして、ダイニングの机の上にレジ袋を乗せた妻が、ん? と首をひねった。
「これ何?」
彼女の視線の先には、帰宅時に置きっぱなしにした自分の財布。財布のポケットからはみ出ているのは——
「これ何のレシート?」
引き抜かれたレシート。保護猫カフェのエプロンに刺繍されていたのと同じ、猫のイラストが描かれている。
「いや、それは違っ……」
真顔の妻。とっさに立ち上がるがもう遅い。
「にゃご……む、保護猫カフェ?」
脳内に言い訳が巡るが、もはや弁明のしようがなかった。
「……ごめん」
ただ謝る。目も合わせられず、床をじっと見る。
「一人で行ったの?」
うなだれるように、こくりと頷く。
怒られると思った。もしくは呆れられて、引かれる。だが、聞こえてきたのは笑い声だった。
「何それ、一人で猫カフェって。驚かせないでよ、浮気かと思うじゃん」
「えっ⁉︎ いや、浮気なんてしないよ俺は!」
「わかってるって、レシート一人分だし。それに……」
妻がくすりと笑ってこっちを見る。
「ねぇ、あなたって本当は昔から猫好きでしょ」
「えっ……」
思わず息を飲んだ。妻の前では今までずっと猫好きを封印してきた。動画だって、妻がいない時や寝ている時にしか見ないようにしていた。
「な、なんで……」
「いや、普通に知ってるよ。いつも見てたじゃん、猫の動画。画面ついたまま寝落ちしてる時もあったし、バレバレだって」
「俺、今日までずっと隠してきたつもりだったんだけど」
「うん、だからあえて言わなかったんだけど。でも、まさか私たちがいない間に一人で猫カフェに行ってるとは思わないじゃん」
思い出したようにまた吹き出した。
「そんなに笑うなよ……」
「なんで隠そうとするの? 別にいいじゃん、猫が好きだって。そんなコソコソする必要ないのに」
「それは……最初に嘘ついたから。今さら言えないでしょ」
ぼそっと口にする。彼女と仲良くなりたかった。それだけのための嘘だった。
「ほんと、そういうとこ変に見栄っ張りというか、頑固っていうか」
買ってきたものを袋から取り出しながら、彼女は呆れたような笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「ほら、ご飯作るの手伝ってよ。シオリがお風呂上がる前に作っちゃいたいから」
「あっ、うん」
キッチンに二人で並んだ。言われた通りに動く。調味料を取り、使ったものをしまい、お皿を出す。
「いただきまーす」
三人での食事は数日ぶりだ。
「おじいちゃんちはどうだった? 何か楽しいことあった?」
最近はだんだんとそっけなくなってきていた10歳の娘だが、旅行帰りのテンションのせいか、向こうであった出来事をたくさん話してくれた。妻と二人でそれに相槌を打つ。
食卓の上で彼女と目が合う。今日あった件は、どうやら娘には黙っていてくれるらしい。おかげで父親のメンツは保たれそうだ。
猫カフェで過ごした時間も、あれはあれで忘れられない幸せな時間だったが、やっぱりこうやって過ごしている時間は何物にも代えがたいのだ。
「あっ! お父さん聞いてる?」
「うんうん、聞いてるよ。シオリが楽しそうで、お父さんも嬉しい。幸せ」
「あぁ〜、お父さんシオリたちいないから寂しかったんでしょ〜」
娘が笑い、妻が笑う。そして、俺も笑って頷いた。
4/30/2026, 11:45:57 PM