「ねえ、神棚に上げてある箱、なに?」
朝食の納豆を無心でねりねりしていた私に、母が不思議そうに声をかけてきた。
しかしそう問われるであろう事は、既に分かりきっていた事だ。なので私は答えた。
「あれは……私の青春の残滓よ……」
「……朝からかっ飛ばすじゃん……。納豆ねりながら……」
呆れたように言いつつ、母も席に着くと器の納豆を練り始めた。
私には、何よりも愛する『推し』が居た。『彼』はとあるソシャゲのキャラクターだ。
所謂『乙女ゲーム』というジャンルで、主人公(プレイヤー)はゲーム中の数多のイケメンから言い寄られたり言い寄られなかったりする。
そのゲーム中のキャラに、私はガチ恋に近い思いを抱いていた。
彼のグッズや、ゲームの追加シナリオや、彼に関するゲーム中のアイテムなどに、惜し気もなくお金を注ぎ込んできた。当然のように私の部屋には、彼のグッズを集めた『祭壇』がある。
その費用は、きちんと自分でアルバイトをして賄っている。額に汗して得た金銭を彼に突っ込むことに、悦びすら感じていた。
そんな彼の新グッズの情報に、私が飛び付かない筈がなかった。
新しいグッズは『香水』だ。
ゲーム中でもよく、彼からは良い香りがすると描写されていた。
私のみならず、SNS上のファンたちの声も「待ってました!」というものが多かった。分かる。
しかも有名な化粧品のメーカーのタイアップだ。期待値爆上げだ。
化粧箱入りで、瓶も凝っていて、専用アトマイザーまでついて、お値段なんと約三万円! 「安ぅい! 社長〜♡」いや、フツーに高いわ。
しかし買わないわけにはいかない。この為にバイトをしてお金を貯めているのだから!
完全受注生産なので予約をし、注文確定のメールを受け取り、私はその日を楽しみに待っていた。
「……言っちゃったよね。『え、クッサ!』って……」
そう。
あんなに楽しみにしていた彼の香りの香水は、私の好みに全く合っていなかった……。
「臭かったんだ……」
母は「香水が臭いとか草」などと真顔で言っている。だが笑い事ではない(真顔だが)。
それ以来、ゲームをプレイしていても「こんなカッコいい事言ってても、この人臭いんだよなぁ……」と思ってしまうようになった。そしてどんどんと熱が冷め、あれ程に暇さえあれば起動していたゲームにログインしない日もザラになってしまった。
部屋の祭壇も、彼の顔を見る度にあの匂いを思い出してしまうので、日に日に縮小されていき、今では跡形もない。
「つまりあの香水は、私に『現実を見なさい』という神からの啓示だったのよ……」
「神様、そんなに暇じゃないと思うけど、まあそうなのね」
「そう。これからはバイト代がまるまる浮くと思うと、色々買いたいものとか買えるから、神様には感謝しとこうと思って」
「一番くじだって、好きで買ってたんじゃん……」
お母さん、正論はやめて。娘の心にクリティカルすぎるから。
「昔から言うじゃん。『女心と馬肥ゆる秋』……って」
「初めて聞いたけど」
「つまり私は、ひとつ大人になったの。そういうことよ」
ふぅん、などと、母は気のない返事をしつつ味噌汁をすすっている。
私も食卓の焼き鮭を箸で解しつつ、あの香水が味噌汁と焼き鮭と納豆の匂いだったら好きになれたかもしれないのに……と、詮のないことを思うのだった。
お題『香水』
8/30/2024, 5:46:10 PM