『境界の灯(ともしび)』
夜の底で、ひとりの青年が立っていた。
世界は静かで、雪の気配が空中に舞っている。
足跡だけが、自分がまだ消えていないことを証明していた。
彼はふと考える。
「なぜ、人を殺してはいけないのだろうか」と。
その答えは理屈ではなく、
胸の奥にある、かすかな痛みの揺れにあった。
――もし誰かを消してしまえば、
その人の笑いの跡も、
沈黙の影も、
肩先に宿った微かな温度も、
自分の中から同時に消えてしまう。
感情は、いつも先に知っている。
「壊したものは、自分の中にも穴を開ける」と。
だから青年の胸には
誰のものともつかない“灯”がともっていた。
あたたかくて、弱くて、でも確かに息をしている灯。
それはこう囁く。
「他人の死は、あなたの内部世界の死でもある」
彼は理解した。
自分が恐れていたのは、
罰でも罪でもなく──
自分の中の“つながり”が消えてしまうことだった。
人は、人という鏡なしには
自分を保つことができない。
だからこそ、
他者の涙を奪うことは、
自分の涙の居場所を奪うことと同じなのだ。
青年は空を見上げる。
輪郭を溶かすように広がる夜空の下、
静かな吐息が白くにじむ。
その瞬間、彼は気づく。
殺してはいけない理由なんて、
難しい言葉はいらない。
ただ、
「世界と自分の薄い糸を、切りたくなかった」
それだけなのだと。
そしてまた歩き出す。
灯を胸に抱いたまま、
自分の感情が教えてくれた“正しさ”を信じて。
2/7/2026, 5:31:38 AM