"あなたに届けたい"
居室にて、ベッドの上に乗って蹴りぐるみで遊ぶハナを背に、卓上カレンダーに書かれている予定を再確認して、入念に脳内シミュレーションをする。
三十秒程経った頃、背後から微かに聞こえていた蹴りぐるみで遊ぶ音が聞こえなくなり、振り返るとハナがベッドから降りて開け放っていた扉をくぐり、廊下を曲がって行った。
──来たか。
ハナの後に続いて、──途中で一瞬診察室に入ってデスクに置いていた、クッキーの入ったプレゼント用の袋を白衣のポケットに入れて──正面玄関に向かう。
「みゃあ」
ハナが鳴き声を上げると、先手を取って後ろからハナを抱き上げる。
「おはよう」
来訪者──飛彩が、少し前に錠を外していた正面玄関の扉を開けて院内に入り、丁寧に扉を閉めてこちらを向いて挨拶をする。
「はよ」
挨拶を交わすと、どちらからともなく歩み寄っていき、飛彩は人差し指を差し出して、俺はハナを近付けて──これまでの反応を見るに必要ないだろうが──ハナの匂いチェックに入る。十秒程指の匂いを嗅ぐと顔を離して「みゃあん」と鳴いて、飛彩がハナの頭を撫でた。
「連絡寄越して、今日来るとか急になんだ」
昨日の夜中日記を書き終わらせた後、髪を乾かそうと椅子から立ち上がろうとした時、机の上に置いていたスマホからチャットの通知音が鳴ったと思って見てみると、飛彩からの【明日そちらに行く】とだけのメッセージのみだった。
あれからずっと、この前頼まれて作った資料に不備があったのかと、気が気ではなかった。
だが俺の問いに「それは……」と言いづらそうに口ごもって顔を伏せる飛彩を見て、要件は仕事での《急用》ではなく、私情での《急用》だと察する。
「ん」
一先ず白衣のポケットから、プレゼント包装をしたクッキーを出して、飛彩の胸の前に差し出す。
「これは?」
「久しぶりに焼きたくなって、作ったら多すぎた」
作んの久しぶりで本当はやる予定無かったけど、と続けると、「ほう」と声を上げる。
「綺麗なラッピングだ」
「たまたま良いのが手元にあったから使っただけだ」
「リボンの結び目だけではなく、端までも綺麗に整えられている」
「……うるせぇ黙ってさっさと受け取れ」
俺に何か言わせよう、という魂胆が見え見えの物言いにめんどくさくなって、ぶっきらぼうに一息で言い放つ。
「ありがとう。大切に食べる」
「……一応言うが、食い物なんだからなるべく早く食えよ?」
そう言うと、「善処する」と言って鞄の中に丁寧に入れた。
──本当か?
鞄のファスナーを閉じた飛彩の顔を見ると、「休憩の合間に食べる」と言葉を続けた。
「丁度いい、久しく人前で吹いてねぇから付き合え」
そう言って居室へと歩き出すと、「分かった」と言って俺の後ろを着いてきた。
居室に着くと、抱いていたハナを椅子に掛けていたストールで包んで飛彩に託し、戸棚から出していたケースの蓋を開けてフルートを取り出す。
「……貴方は凄い」
急に感嘆に似た声を出す。「は?」と返すと言葉を続けた。
「俺は、貴方のクッキーを久しぶりに食べたくて、貴方のフルートを久しぶりに聴きたかった。貴方はクッキーを焼いてくれて、今フルートを聴かせてくれようとしている」
恥ずかしさに言葉を止めたい衝動に駆られるが、何とか堪えて次の言葉を待つ。
「何も言っていないのに、どちらも叶えてくれて申し訳ない気持ちと、嬉しい気持ちがある」
そう言い切ると、ハナの頭をゆったりとしたリズムで優しく撫で、ハナが「みぃ」と気持ち良さそうに目を閉じて喉を鳴らす。
飛彩の言葉に、自分がしてしまった事に気付く。
申し訳なく思っているのは、言葉にして言わなければいけない事だからだと分かっているからだろう。好意や、それに近しい思いは直接口にして伝えなければ、いつか大きなすれ違いになる。
それは、俺も飛彩も痛感している。だからなるべく言葉にして、お互いの思いを伝え合う。
それをせずに、ただ自身のやりたい事に、声色や表情で察したように振る舞って付き合わせて。そんな自分勝手な行動が、結果どちらも飛彩のやりたい事で、それを飛彩の口から聞かずに叶える形になった。周りには「熟年夫婦のようだ」とからかわれるだろうが、俺達にはあまり良い事ではない。
「謝んのは俺もだ」
顔を俯かせ、フルートを持つ手に力が入る。フルートの冷たく固い感触が嫌に強調され、胸の奥が冷えていく感覚になる。
「みゃあ〜ん」
ハナの声と手の甲に感じる暖かな感触で、遠のいていた意識が引き戻される。見ると、俺の手の上に飛彩が手を重ねていた。顔を上げると、微笑んで一つ頷いてみせた。
「……ありがと」
そう言うと離れて、ベッドの端に座った。それを見守るとフルートに口を付けて構え、あの曲──Brand New Daysを奏でる。
それまでした事がない、伝えたいニュアンスを付けて。
それまで以上に一音一音を大切に、そして愛おしく歌うように奏で上げる。
──思いを伝え合う。それを決めて今まで過ごしてきたけど、それでもお互い元々の性格が災いして、思いを完全には出せずに。それを時々察した風に、お互いの思いを分かっている風にして。
──言葉には恥ずかしさにできなくとも、こうやって音に乗せて伝える事はできる。音に乗せれば、俺は思いをストレートに伝える事ができる。
──伝える手段は、言葉でなくてもいい。
──俺の相応しい手段は、《音》だ。
──俺にとっての《音》が、飛彩にも見つかれば。その手伝いができたら。
1/30/2024, 2:50:07 PM