ちいさなしあわせ
私の好きな本のひとつに、須賀敦子作、「遠い朝の本たち」というものがある。16遍のエッセイのうち、「しげちゃんの昇天」という作品がいちばん好きだ。
高校2年生のとき、初めて読んだ。
作者の友人の「しげちゃん」はある厳しい戒律の修道女になることを決める。しばらく経って、しげちゃんが病を患ったことを聞いて会いにいく。久しぶりに会ったしげちゃんと作者が交わす、友人同士の、会話が非常に印象的なのである。
「そうよねぇ。人生ってただことじゃないのよねぇ。それなのに、私たち、あんなに大威張りに生きてた」
高校時代は、この言葉の「深さ」というようなものを、よくわかっていなかった。「ただごとじゃない」という言葉も、「人生」という言葉の意味さえもわかっていなかった。なぜなら、私はまさしく、「大威張りに生きている最中」だったのだ。
若さと、無知と、勢い。しげちゃんは、社会から隔離された厳しい戒律の教会で、なにを思って、どう生きたのか。私は本を読んだあと、函館にあるトラピスチヌ教会を訪れた。厳しく決められた修道女たちの1日の流れが写真と共に展示されていた。中に入ることはできないが、美しい園が正面玄関を抜けると存在しており、そこは観光地でありながら、どこか異質な空気を醸し出していた。ピリ、とした緊張感。それを特に感じたのは、一般向けに、教会が閉まる夕暮れどき。かすかに、修道女のミサの歌声が聞こえてきた。私は自分の唇の乾燥と、手先が冷えてゆくのがわかった。そこに、たしかに、「人」が存在していた。厳しい戒律を守りながら生きている人がおり、それが、いま自分と同じ時代を生きていることを実感した。社会から隔離しているからこそなし得る神聖さのようなものと、その怖さを、高校生ながら実感した。
社会人として大人になったいま、思い返すのである。
それでも修道女を選んだ「しげちゃん」の気持ちも、「ただごとじゃない人生」と涙ぐむシゲちゃんの気持ちも、どちらも心に落とし込めるような気がしてならない。
そう思うと、人生のものさしってなんなのだろう。
小さなしあわせ、とは、言いかえると、自分の価値基準を理解し尊重することのように思う。「小さな」という部分には、「人にとっては小さな」というようなニュアンスが込められているように、思う。
「人にとっては小さな、けれど、私とっては大きなしあわせ」
そういう、人生のものさしが、自分の人生の指針になってくれるのだろうか。
私は大学で上京して、最初にひとりで調布を訪れた。新宿や渋谷より、いちばん行きたかった場所だった。しげちゃんと作者はどこであって、どこで話したのだろう。あのとき、なにを想像して、どんな声で、しげちゃんはあの言葉を言ったのだろう。
「あんなに、大威張りに生きてた」と涙ぐむ彼女に、私だったらなんと言うだろうか。ただ、抱きしめたくなるように愛おしく感じるのは、作者が書いた文に載せられた「しげちゃん」への愛が私の心に共鳴しているからだろうか。
3/28/2025, 3:43:47 PM