『Love you』 2024.2.23.Fri
※BL二次創作『A3!』より 卯木千景×茅ヶ崎至
◆◆◆
それは、珍しく二人とも定時に上がれそうな日のことだった。
珍しく急ぎの案件がなく、珍しく忙しくもなく、本当に珍しく、何事もなく定時を迎えることができたのだった。
茅ヶ崎からのLIMEには、
『久しぶりに飲みに行きましょ。先輩の奢りで』
と、冗談めかして書いてあった。
やれやれ、なんて思いながら返事を打っていれば、隣のデスクの同僚に「卯木がそんな顔するなんて珍しいな。……さては、女か?」などとにやけた顔で声をかけられる始末だった。
つまり。
珍しく、本当に珍しく、柄にもなく、浮かれていた、のだと、思う。
……多分。
◇◇◇
「あー……の、……せん、ぱい?」
「うん?」
やばい、やばいやばいやばい。ナニコレ、どういう状況??? 悲報。茅ヶ崎至、二十五歳成人済み男性、過労の末ついに幻覚を見始めた模様。春組のみんな、カンパニーのみんな、今までありがとう、いたるくんもうダメかも。
オタク特有の早口が脳内を駆け回る。俺にはキャパオーバーです誰か助けて。
一体何が、これほどまでに俺を動揺させているのか。その原因は明白。目の前のこの人、普段はノーロマン極まりないはずの先輩の挙動である。いつもはザルかワクかと言うくらい、全然酔った姿を見せないくせに、(見せるとしても寮の談話室か一〇三号室の中でだけのくせに、)なにがなんだかわからないが、珍しく、本当に珍しく、外で酔っているらしい。
本当か? 俺をからかうために演技してるんじゃないか? なんて、何度も疑ったのだが。多分、恐らく、きっと、……〝マジ〟である。
その証拠に、先程から握られている俺の左手は開放される素振りを見せないし、触れる指から伝わる体温はいつもよりあからさまに高いし、いつも涼しげな目元は誰から見てもわかるほどゆるりと緩んでいる。
外から見えにくい席で良かった。こんなものをそこらのご婦人方に晒したら卒倒してしまう。……俺も卒倒しそう。
これが演技であってたまるか。
「あ、の……」
「うん」
「手……」
「うん?」
微笑むな! いや、いいんです、いいんですけど! 俺が静かにパニックを起こしている間にも、追い打ちをかけるかのように、握られた手の指がするりと絡められていく。きゅ、と力を入れられれば、小さくびくりと肩を跳ねさせてしまい、目の前の男からふ、と声がこぼれる。
恥ずかしいやら悔しいやら腹立たしいやらで、俺の耳はみるみるうちに赤くなる。二十歳超えた男の赤面なんて見ても楽しくないだろうに、先輩コノヤロウはなぜだか心底楽しそうに俺の顔を見つめている。
いや別にね、普段はもっとすごいあれやこれやをしている訳ですし、今更手を繋いだくらいで赤面するほどウブじゃないですよ、ええ。でも相手はあの外面完璧先輩であって、普段は外でこんなことはしない人であって、あの、その……アルコールのせい、ということにさせて欲しい。
いや、ほんとに、マジで。
「あのぉ~……」
「うん」
「そろそろ離してもらえたりは……」
「うん」
「だめだこりゃ」
「はは、ダメなの?」
やっと「うん」と「うん?」以外の言葉を吐いたかと思えば、握った左手を引き寄せられ、口元へと持っていかれる。
あ。
と思った時にはもう俺の指先に先輩の唇が触れていた。
ふに、と押し付けられただけの接触。だが、俺はとんでもない速度で自分の手を引っこ抜く。指先に残る他人の皮膚の感触が、じんじんと熱を帯び、痺れが広がっていく。その刺激が、感覚が、脳内を侵し尽くす前に、己の左手を守るように右手で覆い隠す。広がる感触を揉み消すように、何度も何度も自分の指を擦り合わせる。
なにしてくれやがるんですか、いやほんとにマジで。
数刻前から語彙力の低下が著しい。マジで同じことしか言ってない、マジで。それもこれも全部先輩が悪い。本当に、マジでなんなの。
「逃げちゃった」
「そりゃあ逃げますよ」
「どうして」
「どうして、って……」
どうしてもクソもない。わざわざ言う必要も無いくらい、分かりきった答えだ。
「ここ、外、ですし……」
「別に見えないよ」
「そういう問題じゃ……」
先輩はグラスに残るアルコールを口に含み、くっ、と飲み干してしまう。果たしてこの状態から更に酒を飲んでも大丈夫なのだろうか。
一周まわって心配になってくる。もしかして体調が悪かったんじゃないだろうか、とか、俺より先輩の方が激務なんだからそのまま直帰して休んでもらった方が良かったんじゃないか、とか。疲れが溜まっていたせいで悪酔いというやつをしているんじゃないか、なんてことをぐるぐると悩み始める。
しかし、そんなことを考える健気な後輩――つまり俺――をおいてけぼりにして、先輩の酔いはさらに進んでしまったようだ。
「I kn…… I d…… ……l …… this …… beca…… I'm al…… …… f…… …… y……, but you …… a lot …… me.」
「は」
耳に飛び込んできた日本語じゃない言語に素で焦る。
――あ、やばい、これ先輩マジの泥酔だ。
顔を見ればゆるゆるの目をして俺の事を真っ直ぐに見つめている。さも愛しげな眼差しを俺に向けてくる。早く口を閉じさせなければ、どんな言葉が飛び出てくるか分かったものではないというのに、俺の身体はロックでもかけられたかのように、かちんと固まってしまう。
「Of course, a…… a m…… of the 春組 and …… a lo……, you are th…… l…… of my l…….」
「いや、待て待て待て」
それなりにそれなりの能力を持っていなければ商社勤めなど出来ない。てか、多分就職すらできない。
俺は今猛烈に、英語を聞き取れてしまう己の脳みそを恨んだ。
意味が、分かってしまう。初めの方こそ急な言語チェンジに脳が追いつかなかったが、すぐに順応を始めてしまう。耳が、脳が、先輩の言うことを理解してしまう。
「 I usually can't say it, but today I feel like I can because I'm in a good mood. ……Will you listen to me?」
「ひ、ひぇ……」
もう息も絶え絶えである。どうしろと言うのか。
いや、嬉しくない訳では無いというかめちゃくちゃ嬉しいというか普段見られない貴重な先輩のデレはマジで嬉しいが英語という言語の性質のせいか普段とのギャップのせいかあまりにもストレートすぎるというか、いや、あの、どぅ……ぇ……
「Love you, Itaru.」
「 」
絶句。
殺してくれ。いや、もう既に死んでいる。
茅ヶ崎至、享年二十五歳、死因恥ずか死。
水を奪われた魚のように、何度か口をぱくぱくと動かす。当のご本人様はというと、普段言えないことを言えてご満悦とばかりに、ふわりと微笑んでいらっしゃる。酔っ払いは呑気でいいですね。お陰様で茅ヶ崎の心臓は大変なことになってますよ、ええ。
はくはくと何度か空気を吸い、何度も言葉を言いあぐねて、最終的に捻り出した言葉は、
「ありがとう、ござい、ます……デス」
「……はは」
茶化してやろうとか、反撃してやろうとか、いろんな、本当にいろんなことが頭の中を駆け巡ったが、結局一番伝えたいと思ったのは「嬉しい」ということだった。
嬉しい。嬉しいのだ。嬉しいより恥ずかしいの方がデカいけど、間違いなく嬉しかった。
いつもの軽口を言い合ったり、ちょっとした駆け引きめいた言葉の応酬だったり……。そういうので、別に俺は満足していた。それが先輩なりのコミュニケーションで、素直じゃない――素直になれない――先輩の精一杯の愛情表現だって思ってたから。
そんな先輩が、いつもは言えないようなことを、お酒と英語の力を借りてだけど、言ってくれた……そんなの、嬉しくないわけがない。
俺は当分、下手したら一生、先輩からのストレートな愛の言葉なんて聞けないと思ってたわけ。まあ? 俺のような一般人が踏み込めないような? 複雑な事情とやらが? あるようだし? なんて妄想をしながらさ、「だから俺がたくさん言えばいいよね」って思ってたわけ。別に言ってくれなくても態度でめちゃくちゃ示されてるし。
ああ、もう。急にデレるからほとんど記憶が飛んじゃったじゃないですか。せっかくなら一言一句まで覚えていたかったのに。
俺はようやく暴れ回る心臓を鎮めて、小さな声で先輩に告げる。
「俺も、……です」
「うん」
ここが外じゃなければ濃厚なキスのひとつでもするところなのに。先輩のアホ、ほんとに覚えとけよマジで。
口に出す気もさらさらない言葉を延々と心の中で唱えていれば、先輩の方もようやく少し酔いが覚めてきたようで。
「あー、……茅ヶ崎」
「……はい」
「………………水」
「……ふ、ふふ、はい」
珍しく、あーだかうーだかよく分からない声を上げながら、眼鏡を外して片手で目を覆ってしまう先輩。今日は何から何まで珍しい尽くしだ。あの、そう、あの! いつでもどこでもクールガイな先輩が、どうやら照れているらしい。
人間とは面白い生き物で、目の前に自分より緊張している奴が居れば自分の緊張は解けるし、自分より照れている奴が居れば自分の照れは引くらしい。
水の入ったグラスを差し出すと、ようやく目を覆っていた手を離す先輩。俺からグラスを受け取り、きまり悪そうにちびちびと水を飲む姿がまたおかしい。おかしいというか……可愛い。
「…………酔っちゃった」
「ふはっ……帰りたくない?」
「ううん、今すぐ帰りたい」
「ぶふっ……逆に、積極的ですね……ふ、はは」
ようやく少しだけいつものペースに戻ってくる。お互い真っ赤な顔をして、傍から見れば立派な酔っ払い×2だ。
「明日大雪降ったら先輩のせいですよ」
「雹も降るかも」
「うへえ、勘弁」
くすりとお互い笑い合う。
さあて、酔っちゃった千景ちゃんをきちんと寮までお持ち帰りしないとな。(実質お持ち帰りされてるのは俺の方だけど)
なんて、内心一人ツッコミをかましながら、久方ぶりの恋人とのサシ飲みを終えたのであった。
ちゃんちゃん。
◆◆◆
「おはよう」
「…………おはようございます」
茅ヶ崎の視線がベッドの上から降り注ぐ。何か言いたげな空気を醸し出している。
俺はチェアから見上げて水を向けてやる。
「なにかな」
「いえ別に」
「別にって感じには見えないけど」
「…………」
茅ヶ崎は大変不満そうな目でこちらを見てくる。「ジト目」のお手本のような顔だ。
「……先輩はなんにもなかった、みたいな顔してますけど、俺は覚えてますからね」
なるほど。俺が昨日の今日で平然としていたのがお気に召さなかったらしい。どう考えたっていつまでも照れてるような人間じゃないってわかってるだろうに。
「茅ヶ崎」
「茅ヶ崎は二度寝モードに入りました」
覗いていた顔は引っ込んでいる。どうやらすっぽりと布団を被ってしまったようだ。大方自分で言って恥ずかしくなったのだろう。
忙しない奴だ。
だが、俺は茅ヶ崎のいじらしさを感じて、どうにも構ってやりたくて仕方がなくなってしまった。
それこそ昨日の今日なのだから、「たまには言ってください」とか「普段からもう少し素直に」とか、いくらでも要求することはできるだろうに。こいつが言ったのは「俺は覚えてる」という宣言だけだ。
俺に求めてこないのは俺のせいだし、こいつの物分りの良さのせいでもあるだろう。だが、それでも、忘れてやらないと言った茅ヶ崎が、無性にいじらしく感じたのだ。
俺は梯子に足をかけ、茅ヶ崎の方のベッドへと上がる。
ぺろりと布団をめくるが、特に抵抗はない。抵抗はないが、背中をこちらに向け、二度寝モードとやらを継続しているようだ。
「茅ヶ崎」
「……ぐぅ」
「ふ」
支配人でももう少しマシな狸寝入りができるだろう。
後ろから見える真っ赤な耳に唇を寄せる。
「 」
「うひゃあ」
耳を抑えて跳ね起きる茅ヶ崎。あんまり暴れると天井に頭ぶつけるぞ。
「な、な、は、」
「別に、なかったことになんかしないよ」
意味を成さない音を吐き出す茅ヶ崎に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
どんな表情を浮かべるか少し悩む。悩んで、困ったように眉を下げ、気の抜けた笑みをこぼす。
「ちょっと恥ずかしいけどね」
「……せ」
「せ?」
「先輩はズルい!!!」
「ははは」
キッ、と睨む顔さえ可愛いのだ。間違いなく重症なのはこちらの方だろう。
耳を押さえたまま壁際まで後ずさった茅ヶ崎を追って、ベッドの上へと侵入する。ぎし、と音をさせながら近付き、茅ヶ崎を囲い込む。
「ズルい俺も好きでしょ?」
「…………いっそ殺してくれ」
「あはは」
唇に触れるだけのキスをして、茅ヶ崎を抱えながら布団に倒れ込む。俺は一体いつからこんなにバカになったんだろうか。
珍しく定時に上がれて、珍しく浮かれて、珍しく酔っ払って、珍しく素直になった、そんな珍しい日の次の日に、珍しくバカになってみるのも、悪くはないかなって、思ったんだ。
それだけ。
『いつもからかってばっかりであんまり伝えられてないけど、俺はお前のことをすごく大事に思ってるよ』
『もちろん春組の家族としてもそうだし、恋人として、最愛の人だと思ってる』
『普段は言えないけど、今日はなんだか気分がいいから言えそうなんだ。聞いてくれる?』
『Love you, Itaru.』
2/23/2024, 7:29:55 PM