“香水”
聞き慣れないヒールの足音と、嗅ぎ憶えのある香水の香りにキーボードを叩く手を止める。隣で仕事をするふりをして、ゴシップニュースを見ていた同期も画面をしれっと仕事用のエクセルの画面に戻して顔を上げた。
私と同期の視線の先では先ほどの足音の主と私達の上司とが火花を散らしながら睨み合っていた。うわ、始まったよと通路を挟んで背中合わせに座る先輩が呟く声に同期と二人で振り返った。
今年の春から配属された新入社員の私達よりずっと前からここにいるその先輩いわく、あの二人の睨み合いは恒例行事らしい。物腰の柔らかな王子様的なあの上司が、あんなに他人に感情を剥き出しにしているところを見たことがなかったが、昔はよくバチバチしていたらしい。今は部署が離れて日常茶飯事とまではいかないものの、じきに慣れるさと渋い顔をして先輩はそう言った。
物腰柔らかで顔が良く、死ぬほどモテるが故に女性とは距離を取りがちなあの上司が。あんなゼロ距離で女性とメンチをきりあっている構図のシュールさについつい眺めてしまう。
「なによ、あの女……」
隣の同期がご自慢のはずの綺麗に整えられたピンクの爪をパチパチ弾きながら呟いた言葉にそういえば、このミーハーな同期は配属されたその日からずっと上司を狙っていたっけと思い出した。そりゃあ狙っていた男に、やけに距離の近い女が突然現れたらそんなドロドロ三角関係ドラマに出てきそうなセリフも吐きたくなくなるか、と少しだけ同情する。
最初こそ私も少しはあの顔面にドギマギしたこともあったけれど多分私のことも他の人も総じてジャガイモにしか見えてないんだろうなと思った辺りで私はリタイアしてしまったから、未だに本気で狙っている同期の執念には感心していたのだ。
今日は朝まで愚痴に付き合わなきゃいけないかもしれないなあ。ちょっと買い物したかったんだけどなあ。愛用しているブランドの秋限定の香水を試してみたかったんだけど、まあ明日でも良いか。
そういえば、さっきの匂いを最近良く嗅ぐなと思ったけれど、どこだったっけ。
案の定、今日は朝まで飲むわよ!と唸っている同期にはいはいと相槌を打ちながら、未だにメンチを切り合っている二人を眺める。
……あれ。あの香りって……。なんだか気づいてはいけないことに気づきそうになった気がして頭を振る。
今日は私も結構飲みたい気分かもしれない。
8/31/2024, 7:00:14 AM