谷間のクマ

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《あなたは誰》

 夢を見ていた。
 ずっと前の、幸せな夢。
 そんな夢の中で俺、齋藤蒼戒は過去の出来事を俯瞰していた。

 なんでもない日の、夕暮れ。小さなおれは、自宅の庭で今はもういない姉と剣道をしていた。
「メェン! コテェ!」
「まだまだ〜」
「ドオッ!」
「甘い! 面ガラ空き!」
 軽く、面を打たれる小さなおれ。おれは姉さんから一本も取ったことはない。
「痛っ」
「こんなんじゃ試合で勝てないぞ〜。そら、かかってこい!」
 こんなふうに竹刀を振り続ける俺たちを春輝が「頑張れ蒼戒ー!」とのんびり応援しながら眺めている。
 そんな平和なシーンを見て俺は嗚呼、と思う。
 俺はこの日常が、もうすぐ終わってしまうことを知っている。
 本当に、ただただ平和な日常の1ページだったのに。終わらないって、信じてたのに。

 そこから、場面が変わった。
 姉さんが死んで一年ほど経った、春。
 桜舞い散る、暖かい日。
 人気のない寂れた公園の、立派な枝垂れ桜のすぐ近くのジャングルジムの上。そこにいるのは、小学校低学年くらいの、おれ。
 小さなおれはそのジャングルジムの上でたった一人で泣いていた。もう嫌だ、姉さんのところに行きたい、って。
 でも、そんなおれに同い年くらいの黒髪ロングヘアーの女の子が声をかけてきた。
 出来たてのたこ焼きをくれて、おれの話を聞いてくれた。泣いてもいいって、言ってくれた。
 桜の花びらを3枚、地面に落ちる前にキャッチできたら願いが叶う、とその子は言ってた。
 そしてその子は名前も言わず、おれに空色のリボンを預けて、綺麗な想い出だけ残して、桜吹雪に紛れて消えてしまった。
「まっ、待って……!」
 あなたは……、誰。
 そう問うと、その子はフッと笑って言った。
「きっと、すぐにわかるよ」

 結局、その子が誰だったのか、『おれ』は知らない。

★★★★★

「……ん……」
 すー、と意識が浮上する。
 俺、齋藤蒼戒がパチパチと二、三度目を瞬くと、見慣れた自分の部屋だとわかった。
「……夢、か」
 懐かしい夢。幸せだった頃の夢。忘れられない、想い出の夢。
 こんな夢、今更見たって仕方ないのに。あの少女には、あれ以来会えていないのに。
「あ、起きたか。おはよ、蒼戒」
 声がして振り向くと、双子の兄の春輝が自分の布団の上でストレッチをしていた(俺と春輝の部屋は二間続きで、襖で仕切ることができるが基本は開いている)。
「おはよう……ではないな、時間的に」
 現在の時刻は午前3時過ぎ。おはようと言うには早すぎる。
「まあ形式的なもんだしさ。夢見てるみたいだったから起こそうかなって思ったけど、珍しく笑ってたから起こさなかったんだけど」
 春輝はなぜか毎日深夜3時頃に起きて、俺がうなされてないか確認してくれる。最初の頃はやめろと言ったが、言っても聞かないのでほっといている。
「そういえば今日はいつもの一番見たくないところは見なかったな」
 珍しく、幸せなところだけ。いつもは幸せな夢の先に、残酷な夢が待っているのに。
「まあいいことじゃん。さ、寝よ寝よ! まだ3時だし」
 春輝はそう言って自分の布団に潜り込む。俺もやりかけだった作業は後回しにして、今日はもう寝てしまうことにする。
「そうするか。おやすみ」
「うん、おやすみ」
 春輝がそう言って、パチンと手元の電気を消した。

 余談だが、『俺』があの時の少女がクラスメイトの明里だったと知るのはもう少し先の話である。

(おわり)

2025.2.19(2.21)《あなたは誰》

2/19/2025, 2:56:36 PM