目を覗き込まれている。
閉じた瞼の向こう。すぐ側で誰かに見られている。
そんな感覚を覚えるようになったのはいつからだっただろう。
最初は気のせいだと思った。時折違和感を感じる程度のそれを、然程気にも留めなかった。
だが次第に違和感は強くなってきた。目を閉じると感じる何か。それが視線だと感じた時には、きっとすべてが手遅れだった。
視線を感じ、反射的に目を開ける。
カーテン越しに降り注ぐ朝の光。また一日が始まったことに、そっと安堵の息を吐いた。
軽く頭を振り起き上がると、ベッドから抜け出す。体は重く、立ち上がった途端にふらついてしまう。安静にすべきなのだろうが、このまま横になって睡魔に襲われる恐怖を思うと、多少無理をしてでも起きていたかった。
「大丈夫。ただの気のせいだ」
いつものように、声に出して自分自身に言い聞かせる。
もはや意味をなしていないこの行為を続けているのは、僅かな望みに縋っているというよりも、ただ目を逸らして逃げているだけなのだろう。
そんなことを思いながら、身支度を整える。カーテンを開ければ変わらぬ景色が、自分を置き去りにしていつもと同じ日常を始めようとしているように見えた。
「今日も大丈夫。いつもと変わらない」
縋るように繰り返す。どこかで烏が鳴く声に朝から不吉だと思いかけ、慌てて否定する。
思った所で変わらない。そう理解はしているが、できるだけ不吉だの縁起が悪いだのと考えたくはなかった。
気を逸らすように時計を一瞥し、窓に背を向け部屋を出る。
自分もいつもと同じ日常を過ごすのだと、ふらつく足に力を込めた。
「世界とは時に残酷で、不条理なものなのです」
声がした。
聞き覚えのある言葉に、自分が夢を見ているのだと気づく。
「どうか心を強くお持ちください。深く考えることがありませぬよう」
早く起きなければ。目を開けなければと意識だけが急くが体は指先一つ自由にならず、視線の先で揺らぐ住職の姿も、消えることはない。
「もはやそれしか、あなたを現世に留める術はありません」
硬い表情で、それでいてどこか悲しみや憐みを浮かべて住職は告げる。
所詮は他人事なのだ。込み上げる不快感に顔を背け、目を閉じる。
閉じて、しまった。
「っ……!?」
咄嗟の自分の行動を悔やむものの、もう遅い。
閉じた瞼の向こう側。すぐ側で誰かが目を覗き込んでいる。
感情の浮かばない、無機質な目。他には何もない。息遣いも、鼓動も感じない。
ただ視線だけを強く感じる。触れ合いそうなほど近くで見ている目だけを意識してしまう。
早く目を開けなければ。このままでは戻れない。
「心を強くお持ちください」
住職の声がする。
感じる目の恐怖から駆け込んだ、いくつかの寺の内のひとつで出会った人物。
どこへ行っても門前払いだった自分を招き入れながら、何もできぬと手を離した男。
「深く考えてはいけません」
固く閉じた瞼が震えた。
力を入れてこじ開けた隙間から、光が差し込んでくる。
「気づいてしまえば引きずり込まれ、戻ることは叶わない」
微かな警告の言葉に眉を顰めながら、残る力を振り絞った。
「――あ」
目を開けた瞬間に視界を染めたのは、朱の光。
気づけば夕暮れ時。遠くで烏の鳴き声を聞きながら、手にしていた本を閉じた。
本を読んでいる間に、いつしか眠ってしまったらしい。
溜息を吐きながら、本を手に立ち上がる。
閉館時間の近い図書館内は、いつもより人が少なく閑散としている。だからなのか、余計に烏の鳴き声が耳についた。
「そういえば……」
眉を寄せながら、ふと思い出す。
瞼の向こう側の目を感じる前、一羽の烏と目が合った。
無感情な黒く塗れた瞳。あの時は気にならなかったそれが、何故か酷く気になった。
――深く考えてはいけません。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた気がした。
烏が鳴いている。その異様さに気づき、体が硬直した。
館内で烏の鳴き声が聞こえるはずはない。いくら人が少ないからといって、鳴き声以外の音が何も聞こえないなどありえない。
次々と浮かぶ疑問に、かたかたと体が震え出す。これ以上考えてはいけないと思うのに、考えることを止められない。
思い出す、目を開けた時の朱の光。夕暮れを、窓のない館内にいて感じることができたのか。
――気づいてしまえば。
住職の警告も、もはや意味がない。
自分の目は今、図書館内を見ている。だが、感じるのは烏の声。吹き抜ける風の冷たさ。香る草花の匂い。
視覚以外が、外にいるのだと訴えている。夕暮れの、烏と目が合った時のまま自分は立ち止まっている。
「あぁ……」
気づいてしまえば、その瞬間に視界が変わる。夕暮れの寂れた道端に佇んでいる。
烏の姿はない。鳴き声だけが響いている。
目を閉じれば、現れるのだろうか。
「――違う」
無意識に声が出ていた。
今更、目を閉じても閉じなくても変わらない。閉じた瞼の向こう側にいるのではない。
気づいてしまった。乾いた笑い声が喉を震わせ、見開いたままの目から涙が流れ落ちていく。
「最初から、いた……目が合った時に、もう……焼き付いて……」
目は最初からあった。
瞼の裏側に焼き付いて、閉じる度に目が合っていた。
――世界とは時に残酷で、不条理なものなのです。
住職の言葉を思い出す。
確かに不条理だ。自分はただ烏と目が合っただけ。たったそれだけで、目が焼き付き離れなくなってしまった。
泣きながら笑う。滲み揺らぐ視界で、影が伸びていく。
翼を生やした自分の影に見えるが、違うのだろう。
影が揺らぐ。湧き出た黒い靄が体を包み込み、目を覆う。
しばらくして離れていく靄に浮かぶ一対の黒い瞳。焼き付いていたはずの目が靄に移り、触れ合いそうなほど側で目を合わせている。
体は靄に包まれ動けない。瞼は靄に縫い付けられてしまったのか、もう閉じることができない。
「あぁ、不条理だ」
笑いながら呟いた。泣きながら叫んだ。
けれどすべては意味のない行為。
最初から手遅れだった。
これから先も、自分は目を合わせ続けるのだろう。
終わりはない。
永遠に目は離れない。
20260318 『不条理』
3/19/2026, 5:05:56 PM