26時のお茶会

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好きじゃないのに


以前、知り合いの魔女たちに愛と恋の違いについて尋ねてみたことがある。

皆、恋から愛に変わるものだなどと恋の延長線上に愛を置く、そんな前提で私に答えてみせた。

だが、ただ1人。境界の魔女は少しの間言葉を選ぶように視線をさ迷わせて、皆違う自分の正解を持っているだろうけども、と前置きしながら
「僕はね、愛の本質は捧げるもの、恋の本質は求めるものだと思っているよ。愛はどんな見返りも必要ないくらい、相手の幸せを願い求めるアガペーと言われる感情。逆に恋は相手からも同量同質の感情を欲しいと願ってしまう…そう、見返りを欲する捧げもの。そんなイメージが強いかな」
「愛は与えるだけで、恋は与えた分欲しがるもの…」
境界の魔女の言葉を反復すると「僕にとってはね」と魔女はころころ笑った。
「蛇足だけどどちらも相手を想うという意味では並々ならぬエネルギーが込められていてね。そういうものは強い呪いになりやすい。実際僕の店にもかなり持ち込まれているよ、愛や恋の成れの果てってやつ。うん、そういう意味ではベクトル…込める気持ちの方向性や意味合いはほぼほぼ似通ったものかもしれないな。…どちらにせよ等しくエゴさ。自分の持っているものを相手に押し付けるという面で見ればね」
だから違うとも言えるし同じとも言える。そう締めくくって境界の魔女は紫水晶のような瞳を細めながら侍従が持ってきた紅茶に口をつけた。

私はなるほどと今言われた言葉を咀嚼する。そうして、境界の魔女の隣に立つ端正な顔つきの男…はたから見ていても並々ならぬ感情を魔女へと向けるシキと名付けられた男を見ながら、この男の想いは愛なのだろうか恋なのだろうか、それともまた別の何かなのだろうか、とそんなことを思っていた。


さて、それでは。「好き」とは果たして愛の言葉だろうかそれとも恋の言葉だろうか。
好きですと伝えるという行為時点で相手に自分の想いを認知して欲しいという感情が少なからず含まれるということはそこに受け入れて欲しいというエゴイズムがノイズとして紛れ込むだろう、それならやはり恋の言葉なのだろうか。
相手から同量同質の心を奪うことを考えない愛の言葉にはなれないのだろうか。
それは嫌だな、と思う。私はあの人からそんなものを与えてほしくはないのだ。

私は瞼を閉じてあの橙に透ける赤髪を、男にしては長い睫毛に縁取られたペリドットの瞳を、少し甘やかに私の名前を呼ぶ声を、アガットと旋律の魔女という一人の男を思った。
あの魔女の心に遥か昔から住んでいる女性を知っている。そこに入れ替わりたいとも自分を差し込みたいとは思わない。あの魔女のなりたい姿や目標を知っている。それを邪魔したいとも思わないのだ。

だから、これは恋ではない。故に、この気持ちを言葉にしたとして「好き」ではない、はずなのに。これは「好き」じゃないのに。
どうして周りの人たちは私の感情に恋だ好きだと名前をつけるのだろうか。
それとも周囲には、私自身気付いていない、浅ましい求める心とやらが透けて見えているのだろうか。

彼に笑っていて欲しい、幸せであって欲しいと思うこの気持ちは、大多数の者が言う恋の延長線上にあるという愛には昇華されないのだろうか。

そんなことをぐるぐる考えているうちに仕事の時間がやってくる。
当然、ビナーとして担当の魔女たちに会いに行かなければならないわけで。
その中にはアガットと旋律の魔女も含まれているわけで。
「私はアガットさんを好きじゃない、すきじゃない、よし」
そう自分に言って監督官の顔を作り、私はいつものようにゲートを開いた。

3/25/2023, 5:42:07 PM