彼は、どこにも行きたがらない男だった。
誘えばいつも、こんなメッセージが返ってくる。
「この間死んだ金魚の初七日だから」
「満月だから外に出たら変身しちゃうんだ」
「実は俺、部屋から出ない族の末裔なんだよね」
彼を誘えば、いつもそんな馬鹿げた冗談が返ってくる。
くだらなくて誰も傷つけない、彼そのもののような優しい冗談が僕は好きだった。
久しぶりに連れ出してやろうと訪ねた友人の部屋には、光がなかった。
窓は重く閉じられ、壁はすべて青で塗り潰されていた……海の底みたいだ。
声も足音も、希望さえも沈んで消える冷たい深海。そこに彼はいた。
背中を丸め目を閉じて、何かの音に耳を澄ますように。
「蹲っていたいんだ」ぽつりと呟く声は、泡のように頼りない。
さあ行こう……彼を海の底から引き上げる言葉は喉で凍りつき、言えなかった。
かといって慰めることも励ますこともできず、僕はただ友人の横に座った。
「ここにいるから金魚の四十九日までには戻ってこいよ」
彼みたいな下手くそな冗談を言ってみたけど反応はない。
やっぱり友人のようにはいかない。
あのくだらない冗談に僕が救われた日々があったことを、彼は知らない。
僕は彼に静かに寄り添った。
そして深海の底の静寂に身を委ねた。
6/7/2025, 5:09:54 AM