『眠って夢を見る。
大きすぎるベットから見上げて映るのは、天蓋からふわふわと舞っている淡いオーロラのカーテンだ。ベッドの真ん中で横になり、ふかふかの布団を顎まで引き上げる。
そこに母の手が伸びて、ふかふかの布団を肩まで下ろされる。そのまま手は頭を撫でてくれて、母は寝物語を語ってくれる。
ああ、寝物語の内容はなんだっただろうか、いつも最後まで聞き終わる前に瞼は降りて、頭を撫でてくれる母の手の隙間から父の優しげな笑みが遠く聞こえてくる。
後はただ、眠って夢を見る。
朝が来て、瞼に朝日が差し込んで、鳥の声に起こされるまで。』
黄色の皮で装丁された本の表紙は、春を題材にしたものだった。描いた人物の名前に覚えはなく、しかしそれが子どもに向けたものではなく、大人のための収集本である事は知っていた。自分も少し装丁は違うが持っているからだ。
描かれた春は緑の瑞々しい蔦と葉が伸び、色とりどりの花が咲き乱れたその世界は太陽の光に溢れていた。その中心で少女が活き活きと描かれている。金色の豊かな髪に白い肌をして、膨らみかけた胸と細くくびれた丸みを帯びた腰は、見ようによっては少女というよりも女性のようにも見えた。
これは芸術なのだろうが、絵画に対する知識は薄いので分からない。中身は子ども向けの絵本にもならないような、小さく短い文字が幾つか連ねてあるだけのものだ。
本にそれほどの好き嫌いはないが、絵本のたぐいは成長するにつれて確かに読まなくなっていった。
それでもこの本の中身だけは、不意に読みたくなる時があって探し回ってまで手に入れたものだ。おかげで家にあるのはどこか古びてしまっているが、側にあれば愛着も出てくる。
今手にしているのは図書室で保管された綺麗なもので、厚さのあまりない背表紙を軽く撫でる。
物語は、とても簡素で簡潔で簡単なもの。
幼い少年が、母親に寝物語を聞かせられているうちに寝入ってしまい朝が来るまで夢を見る、ただそれだけの話だ。
僅かに瞳を閉じれば、その光景は直ぐに想像する事が出来た。
幼い少年は3歳くらいだろうか、背伸びして大きな白いドアを開く。その先は少年の為だけに作られた部屋が待っていた。白い壁にかかるシャンデリアの明かりは部屋中を包んでいる。白い天井には淡い色のカーテンが所々にかかり柔らかな印象を醸し出していた。そして白い床の上にはふわふわとした敷物が敷かれている。部屋の隅に白く大きなクローゼットがあり、傍には少年の遊び場が小さく設けられている。そこにだけ遊び道具が置かれ、敷物の色は鮮やかになっている。
窓のふちには瑞々しい芽が出た小さな鉢が置かれている。窓の横には中庭へと続くドアがあるが、少年が一人で出入りできないように鍵はしっかりとかけられていた。
部屋の真ん中には天蓋付きの大きなベッドが置かれており、天蓋からオーロラのようにかけられたカーテンがふわふわと舞っている。
幼い少年は深い橙色の頭をしていて、少年の後をついて部屋に入った母親は少年のそれとは違う色味ではあったが髪質だろうかとてもよく似ている。少年とその母親が並ぶと余計によく分かる。
部屋に入るなりベッドに転がり込む少年に、その後を追ってベッドを整える母親がいた。ベッドに腰掛けて、少年の頭を優しく撫でながら寝物語を聞かせてやる母親と、最初こそ冴えたクリーム色の瞳を輝かせて聞いていた少年のそれが段々と瞼を落としていく。そんな少年に、寝物語の声の調子を少しずつ落としながら愛おしげに瞳を細める母親。
幸せが満ち溢れたようなその光景は、どこか懐かしく思えて、そして狂おしいまでに愛おしい。
自分はいつも、大きなベッド側にある椅子に座って、少年と母親を眺めていた。少年が寝入り始めた頃に、その愛らしさに負けてほんの少し笑ってしまってから、母親の側に寄ってその肩に手を添える。少年の頭を撫でていた母親はその手を離して、ベッドから立ち上がる。
部屋の明かりを消して、小さな寝息を繰り返す少年を残して二人で部屋を出る。
そこで、いつも自分は目を覚ました。
部屋の扉がゆっくりと閉まっていくのと反対に、意識はやんわりと浮上して目を覚ます。少年が朝を迎えるのを見届ける前に、自分が朝を迎えるのだ。
それは手に持っている本の中身を知る前から自分が見るようになった夢の中での話であり、そこで自分はいつも父親の役だった。
深い橙色の頭に輝かんばかりのクリーム色の瞳の少年の、幼い無邪気な笑みはどこか自分の顔つきとも似ているように思えた。
一見して黒っぽくも見えるが透かすと明るくなる髪に灰色の瞳の母親の、柔らかな素朴さは見飽きる事を知らなかった。
いつもいつも、夢を繰り返しては、愛しさが募るのが分かった。
最初にその夢を見たのはいつの頃だったか、ただ幸せで、幸せ過ぎて、目を覚ましたその時に幸せが溢れて涙になって零れていった。
泣いて、泣いて、泣いて。
何を考えているのか、何を思っているのか、何の情報も処理できず、それを発散させる方法など分かるわけもなく、ただ、泣くしかなかった。
夢を見る毎に、自分は愛される幸せと、愛する幸せとを噛み締めながら目を覚まし、目を覚ますたびにそれを失ってしまった事を知るのだ。
あの瞬間だけは、自分はこの世の誰よりも、ずっと幸せだと言い切る事ができた。
物語の中では、少年は母親の寝物語を寝入りながら聞いているために、よくは覚えていない。
自分の夢の中では、母親は少年にいつも同じ寝物語を聞かせていた。と言っても、いつも見る夢が毎回同じなだけで、少年と母親と、そして父親役の自分はいつも同じ時を繰り返す。同じ部屋で、同じ服装の人物に、同じ表情と動作をして同じ話をする。
少年が途中で眠ってしまい、母親は寝物語を途中で止めてしまうために最後までその話を聞いた事はない。
母親の寝物語は『ヒーローが世界を救うために旅に出る』よくあるストーリー。
結末は想像に難くはなく、同じような話はどこにでも存在するが、その物語と全く同じ物語を現実で見聞きした事はなかった。探そうと思わなかったのもある。もしも見聞きする事があるのならば、夢の中の母親自身の口から聞きたかったからだ。
その寝物語を知っていたのは、アイツだった。
『余分な程に完全な世界に開いた12の穴を塞ぐために旅に出る、12人の英雄の物語』
明るい橙色の髪に、不透明なクリーム色の瞳をした奴。
ひょろりとした背に、どちらかといえば整っている顔立ちの優男。夢に見る少年がそのまま大きくなったようなその姿は、どこか自分の顔立ちとも似ているようで気味が悪かった。夢に見た少年の髪よりだいぶ明るい頭の色は、そのまま奴の能天気さを表しているようでもあった。
特に、夢の中の少年の瞳があまりに鮮やかなクリーム色だったのに対し、奴の不透明などこか濁ったクリーム色の瞳が気に障った。それが夢の中の少年と奴との違いを決定的にもしているようで、当然だが別人である事は明らかだ。
夢の中の事だというのに振り回されてしまっていた自分を恥じ入るには十分な存在であり、こちらは奴の一切を気にしないようにしているのに、何かと気にかかる面倒な奴。
そして、その寝物語の結末を知っていたのは、彼女だった。
『12人の英雄は、穴から出てくる影を退治していき、穴を塞ぎ、それを見守るために英雄もまた1人ずつ旅から外れていく。最後の1人が最後の穴に辿り着いた時、12人は王として穴の上にそれぞれ12色の玉座を据えてその上に座す。そして、余分な程に完全な世界は満たされる』
濃い色合いの髪に、灰色の二重の瞳の彼女。
小さな身体に、素朴な顔立ち。夢に見る母親にはまだ届かない幼さのたぶんに残る姿は、未来の彼女の姿を自分が垣間見たような錯覚を起こさせた。夢に見た母親の方が彼女の髪の色よりかはずっと濃いが、触れれば同じ髪質なのだろうと思うのは、夢に見た母親の髪と彼女のそれが重なるからだ。
夢の中の母親と彼女は繋がる所はあっても別人であり、同じように見ているわけでは決してない。
だいたいが、夢の中で自分と彼女は夫婦であり、お互いにこれ以上ないほど愛し合っている、などと口にした所でそれは自分の妄言と捉えられても可笑しくはない。
あくまでも夢は夢でしかなく、現実は現実でしかない。だからこそ、現実の彼女の笑顔こそが一番なのだ。
手にしていた本を、本棚の中に戻す。
黄色い装丁の薄い背表紙の本は元あった場所に当然ながら綺麗におさまった。
時計を見ればあまり長い時間、図書室に居たわけではなかったらしい。気晴らしに立ち寄った図書室で見知った本があるのを知っていたから手に取っただけの事だから、時間的には当然かもしれない。
時間はまだあるがこのまま図書室に居てもする事はないので出ようかと思った所で、彼女が寝物語を締めくくる言葉を思い出した。
彼女はこう寝物語を締めくくる。
『しかし、余分な程に完全な世界に、王は存在しない』
“誰よりも、ずっと”
4/9/2024, 10:34:16 AM