古井戸の底

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「彼の転職が決まったら、結婚して東京に行くかもしれない」
小学生以来の親友にそう言われた時、彩子は東尋坊の崖っぷちに立たされた心地がした。

彩子の恋愛経験は一度きりだった。新卒で入った会社の同期と付き合ったが、彼の怠惰に愛想を尽かし、半年足らずで別れた。さらには身体を壊し、会社を辞めて1年ほど引きこもった。それ以降、同年代の男性と関わることは一切なく三十路が見えてきた。
現在の彩子の職場は中年だらけ。当然出会いはない。彩子もそれでいいと思っていた。親友と月一会って遊べば、孤独を十分に癒せたから。
しかし、今の彩子は自分でもおかしいと思うくらいに焦っていた。結婚まで行かなくてもいいから、せめてもう一度恋をしたい。


親友に薦めてもらったマッチングアプリを入れて、彩子は右も左も分からぬまま、とりあえずプロフィールが誠実そうな人を選んでやり取りを始めた。なるべく話に共感を示していたら、意外にも数日で初対面の約束が決まった。場所は彼にお任せしてしまった。

秋らしい色合いの服を箪笥から引っ張り出して並べる。服を選ぶのにここまで悩むことも今までなかった。きっと彼もそれなりにオシャレしてくるはずだ。自分は見合う格好をできているだろうか。
期待と不安で鼓動が速まる。彩子はメイクを終えると、ひとつ深呼吸して、鏡の前で笑ってみた。

【秋恋】

10/10/2025, 2:51:08 AM