書く習慣:本日のお題「遠くの空へ」
遠くの空へ、というからには近くの空もあるのだろうか。
自分の現在地に雨を降らせるくらいの範囲は「近くの空」と呼べそうだ。横軸的な意味では空への遠近感がある。
だが、個人的な感覚でいえば、縦軸的な意味での「近くの空」は飛行機に乗らない限り実感できない。
地上にいる限り、手を伸ばそうが山に登ろうが、空は頭上の遥か彼方に広がっているものだと感じる。
前に山へ行った時、姿がかろうじて見えるほど上空からヒバリの声がした。「あんなに高い所にいても聞こえるのだから、ヒバリの声はとても大きいんだな」と思った。
子どもの頃に読んだ絵本に、太陽まで飛んでいったヒバリの話があった。天気が悪いのか冬が長引いたのか、ヒバリは「太陽のかけらを地上に持ち帰る」というミッションを背負い、遠い空へ羽ばたいて行ったのだった。
そりゃあ20cmくらいの小さな体であんなに高いところまで飛べるのだから、太陽まで行けそうな気もしてくる。ヒバリと同じく高所にいるイメージのトンビは翼を広げると1.5mくらいあるから、高いところを悠々と飛んでいても「でしょうね」という感じである。
飛行機の窓から雲を見下ろして、シルクともコットンともつかない白雲の表面に、機体の影が黒々と落ちているのを見て、自分は今空にいるんだなと思う。
以前、入間の航空祭へ行った時にブルーインパルスの飛行を見て、「一人で飛行機を操縦してあんな高い所を飛ぶのは怖くないのだろうか」と思った。
身ひとつで空を舞うヒバリにはそんなことを思わないが、飛行機は体の一部ではないし、メンテナンスが必要な機械だから、ついそんなことを考えてしまう。無事に空から戻ってくる操縦者も、機体を整備している人たちもすごいと思う。
私は車の運転すら苦手なペーパードライバーゆえのゴールド免許なので、飛行機にしろ電車にしろ「運転したい欲」が全くない。運転免許を取った際に自転車の危険に気がついてからは、なるべく公共交通機関での移動を心がけている。自分が人を轢くのも怖いし、不注意で誰かを加害者にしてしまうのも申し訳ないからだ。
自分はそのようなビビりムーブのくせに、誰かが運転してくれている乗り物にはあっさり乗るのだから、まさに技術的なフリーライドである。もちろん乗車料金は払うし、バスなどから降りる際は、運転手さんに「ありがとうございました」と言うようにしている。
さて、「遠くの空へ」というお題に話を戻そう。
私は根っからのインドア派で、飛行機に乗る機会は滅多にない。おまけに飛行機の搭乗にハードルの高さを感じている。何やら事前に色々と手続きが必要で、持ち込める荷物に制限がある。新幹線みたいに、発車3分前にホームの階段を駆け上がっているようではダメらしい。
以前、空港現地集合タイプの旅行計画を立てた際、同行者から、
羽田だよ
成田じゃないよ
羽田だよ
千葉じゃないほう
東京のほう
と、覚えやすいようにか狂歌で念押しされた。そして続けざまに「遅れたら乗れないから」「チケットに書いてあるより1時間前に着くようにして」「そうだ、空港で一緒に朝ごはん食べよう」「朝の電車は遅れるかもしれないから、本当に時間に余裕を持って来てほしい」と、旅行会社のガイドさん並みに丁寧に説明してもらった。
楽観主義の飛行機エアプが当日の行き当たりばったりで行動すると、本当に詰むようだ。
せっかくの旅行で迷惑をかけたくないので、当日の朝と同じ時間に到着するように一度空港まで行ってみた。成田とは間違えなかったものの、地元のこぢんまりした空港しか知らなかった身に、羽田空港は広かった。
駅みたいなものと言えばそうだが、そこだけでひとつの街のようだった。天井が高く開放的で、SFか何かに出てくる「あらゆる天候からシェルターで守られている街」っぽかった。
そしてみんなスーツケースを転がして、ヒールや革靴をコツコツ鳴らして颯爽と歩いていた。かっこいい。散歩へ行くようなカジュアルな服装で、祖父から譲り受けた古いボストンバッグを提げた自分が、ひどく場違いに思われた。
合流した同行者から予定時間より早く着いたことを褒められ、おしゃれなカフェでコーヒーを飲み、私たちはつつがなく機上の人となった。私が散歩服なのに対し、同行者はふわっとした丈の長いワンピースに身を包んでおり、なるほどこういう格好をすればかわいくリラックスできるのだなと勉強になった。
私の手持ち服が丈の長いふわっとしたデザインになったのは、この時の経験が元になっている。せっかく遠い空へ行ったのに、地上に持ち帰った教訓がこれだ。
太陽のかけらを咥えて地上に持ち帰ったヒバリのほうが、私より遥かに有用である。
4/12/2026, 2:12:40 PM