郡司

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お題更新時間に間に合わなかったという不覚。法事の準備……自分が主立ってやっていること自体にトシを感じるここ数日。と、いうわけで長文だ。

「お金より大事なもの」なんてたくさんあるにきまっている。けど、現実問題として人間社会システムのなかに生活するのであれば、お金というものは重要だ。だからこそ勘違いも横行する。紙幣自体を食べることはできないし、小銭自体だって食べられない。紙も金属も、それ自体が命の糧にはならない。紙幣や貨幣は「価値を所有する権利の印」以上でも以下でもない、「お約束の証」でしかないのだ。いわんや、「自分自身の力」などでもない。

さて、「お金って何よ?」から考えないと、いまいちぼやけた話になってしまいそうだ。なので、遠く過ぎ去りし日々に始まって現在では「便宜のシステム」として確立している、カネの話をしてみよう。

私が学校で習った「銀行と貨幣のはじまり」とは、ざっくり言ってこんな話だ………


 昔々、いちばん価値ある「もの」と考えられていたのは、金(きん)という鉱物でした。王様はそれをたくさん持っていました。でも、自分のお城に金を置いておくのは、いろいろとたいへんでした。金はとってもきれいに魅力的にかがやくのですが、とっても重たくて、運ぶのも大仕事です。買い物をして金で支払うにしても、どれくらい使って、どれくらい残っているのか、ちゃんとわかっておくのもたいへんでした。
 そこで、王様の知る中でも計算が得意な者に、金を使ったり保管して管理する仕事を任せました。王様は、このやり方をすれば、金のいろいろと面倒な取り扱いを自分でやらなくてもいいと考えたのです。重たい金を自分で運ばなくていいし、自分でいちいち金の数量を数えなくても、管理をする者に「今どれだけある?」と尋ねればいいのです。このやり方は、瞬く間に貴族たちにも広がりました。金の管理をする者は、王様をはじめ幾つもの貴族家の金をひとりで管理するようになりました。

 王様や貴族たちが喜ぶいっぽうで、金の管理を任された者は、悩みをかかえていました。自分の持っている金の量よりも多く金を取り引きしてしまう人が出てきたからです。「お預かりしている金はこれだけです」と言っても、貴族は「なんとかならないのか、お前の手元にはたくさん金があるだろう」などと無理を言います。管理者は平民でしたから、貴族はワガママ放題な態度です。管理者は仕方なく、他の貴族家の所有する金から少し金を取り出し、ワガママ貴族に言いました。「これはよその貴族家の金です。お困りのようですから特別に今はお出ししましょう。しかし、必ず早くお返し下さいね。あなたも他の貴族家の皆さまと険悪になるのは不都合でしょう…」

 “使い過ぎた”貴族は帰って行きました。管理者がほっとしていると、先ほど少しだけ金を取り出した「よその貴族家」がやって来て言いました。「やあ、ちょっと大きな買い物をしたのでね、預けてある金を全部出しておくれ」

 さあ大変です。この貴族家から預かっている金から、仕方なかったとは言え無断で少し取り出してしまったので、金の量が足りません。このままでは自分が処罰されてしまうでしょう。死にたくないな、と管理者は思いました。何とかバレない方法を必死に考えて、管理者は思いつきました。ダメもとですが、試してみる価値はあります。管理者は死にたくないのです。

 「金を全部出すとたいへん重いですから、私の署名を付けて、あなたがお持ちの金が確かにあることを証明する文書を出す、というのはどうでしょう。その証明書を相手様にお渡しして、相手様がその金を所有する権利の証とするのです。この方法なら、重い金を苦労して運ぶことなく、金のやりとりができます」

 その提案は気に入られました。管理者は事なきを得ました。でも、きっとこれからもこんな出来事は起こるでしょう。度重なってしまったら、やはり自分の命が危ない。それは嫌だな、と思った管理者は、金を預かっている貴族家すべてに、同じ提案をしました。そして、貴族達が自分の預けている金の量より多く金を使いたがる場合に備えて、きまりを定めることにしました。「自分の持っている金より多く金が必要になって、他の貴族家の金から“借りる”とき、“借りたぶんの金”を確かに返すことと、“借りたことへの礼金”を出すことを約束する文書に、借りる人が署名する」というものです。管理者はこの考えを王様に提案しました。


…と、いう話だった。昔、授業で実際に聞いたときの内容はもっとえぐみのある「詐欺じゃね?」という内容だった。銀行の始まりは詐欺だったのかと思ったくらいだ。管理者は積極的に「証書を使った金ころがし」を、金の所有者達にナイショでやっていた、と。預かっている間はどう扱おうと、最後に帳尻が合えば問題ないだろ?ってなことだ。他人の金(きん)を、あたかも自分が所有しているように振る舞い、「貸してやるから手数料付けて返せ」を繰り返して自分自身の財とする。その手法の骨子は現在も変わらない。これを現代経済は「信用創造」と呼んでいる。しかし現代は「ペイオフ制度」というものがあるから、信用創造もへったくれも無い気がするが。

つまるところ、通常「お金」と呼ばれてみんなの財布に入っているものは、「価値を保障する日本銀行発行の証書」なのだ。日本は「金本位制」をとっているから、まさに上記のお話にあるとおりに「証書」である「日本銀行券」、つまり見慣れた「紙幣・硬貨」が、扱い難い「金(きん)という鉱物」のかわりに世間を巡っているのである。今となっては、紙幣・硬貨の姿に合わせた対価交換システムが社会に浸透していて、金(きん)では買い物できないのが現実だから、「法的なお金のおおもと」や「お金の概念」が何なのか解り難い。

金本位制のもとで日本銀行券を正しく「価値」たらしめているのは、「連続性」であると言っても過言ではない。日銀は国内外に存在する「日本銀行券・硬貨の総量」をいつもほぼ一定に保つことも担っている。紙幣・硬貨は程度の差こそあれ、みな「消耗品」だ。擦り切れた紙幣一枚を回収したら新しく一枚を造幣して出すような「物理的連続性」を担保している。鉱物の金(きん)は勝手に増殖しないし、大抵の状況下では腐食もしないから、紙幣・硬貨も同様に「総量は増えず、減らず」でなければならないのだ。
お金の動きを記録する「帳簿」にもそれは反映されていて、“どこから出たのか判らないお金の数値・どこへ消えたか判らない金銭取引”の居場所など無い。…だから「明らかでない、明らかにしたくない」お金は、“記載しないで闇の中でやりとりする”のだ。国会のセンセー達はこれが大好きみたいだが、はっきり言って「おカネはまさに自分のチカラだって勘違いしてるバカで~す!」と自己紹介しているも同然だ。…バカ多いな。

私個人としては、お金より大事なものとは、命から発して命へ還るもの、だと考える。お金は「経済活動上の、人間社会の中でだけ交換可能な価値の証明・媒介」であって、命と天秤にかけても、お金に勝ち目はまったくない。命が「主」であり、お金は「従」だからだ。例えば、月面に自分ひとりしかいないとき、紙幣で百億円持っていても、金(きん)をたくさん持っていてもまったく無意味だ。

長すぎるな。ここまで。

3/9/2024, 3:59:03 PM