すゞめ

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『心の境界線』

 アスリートにとって、食事はパフォーマンスに直結する行為である。
 一般的に女性は鉄分が不足しがちだというから、素人知識ながらも意識した。
 減量もアレルギーもない。
 極端なことはせずに脂質や油調理を少なくして、白身魚をメインに夕飯を整えた。

「え、すご。おいしそう」

 風呂から戻ってきた彼女が、キッチンから立ち込める匂いに目を輝かせる。
 その反応に、心の底からホッとした。

「すぐ食べられますよ」

 おにぎりをひとつ食べたと言っていたから、少なめにご飯をよそう。

「どうぞ」
「ありがと、って、あれ?」

 ローテーブルの前に座った彼女は、茶碗を受け取りながら首を傾げた。

「ねえ。れーじくんの分は?」

 彼女からの思わぬ言葉に、つい声をあげる。

「えっ!?」
「え?」

 お互いまじまじと見つめ合ったあと、数拍の沈黙が流れた。

「もしかして、ない?」
「はい。俺は軽くすませてきました」

 しょんもりと肩を落とした彼女が、唇を尖らせて拗ね散らかす。

「なんで? いっぱい作ってたよね?」
「あれは朝食、補食、夕食を含めた5日分の作り置きです」
「それ、崩していいから一緒に食べたい」

 プクッと、彼女はあざとくむくれる。
 かわいい訴えにキュンッと彼女への好感度が上がる音がした。

「ちょっとでいいから。お願い」
「……」

 かわいいなっ!?

 これを無自覚にやっているのだから困りものである。

 あっさり落とされた俺は、彼女と食卓を囲んだ。

 丁寧に手を合わせて、彼女は黙々ときれいな所作で箸を進める。
 もぐもぐと小さなお口で一生懸命に咀嚼している姿はかわいさの極みだ。

 しかし、彼女の表情は影を落として曇ったまま冴えない。
 栄養バランスは考慮しつつも、彼女の好きなメニューで取り揃えた。

 あれ?
 もしかして不味かった?
 味つけが濃すぎたのだろうか。

「お口に合いませんでしたか?」
「んーん。すごくおいしいからビックリしてるくらい」

 3年間告白を断り続けた彼女が、つまらないリップサービスをするとは思えない。
 では、なにを気にしてそんなに憂いを帯びた顔をしているのか。
 探りを入れる前に彼女がポツリと呟いた。

「なんで、自分のご飯用意してなかったの?」
「食材と調味料はあなたの金で用意しましたし、キッチンはじめ、調理器具もあなたのものですよ?」
「それとなにが関係あるの?」
「え? そんなの、決まってるじゃないですか」

 ホットプレート、ホットサンドメーカー、低温調理器などの調理器具が未開封の状態で、キッチンの棚に収納されていたのだ。
 自分ではなかなか手を出せないアイテムにテンションが上がる。
 今回、彼女の家に押しかけたのも、キッチンを使わせてもらうことが目的だった。

「あなたの金と調理器具を使って飯を作らせてもらったんですよ? そこからさらに推しを拝みながら食うとか、さすがにおこがましすぎませんか?」
「いきなり様子がおかしくなったな?」
「それに、一緒に飯を食うのを恥ずかしがったのは、あなたのほうじゃないですか」

 以前、一緒に飯を食ったときに顔を真っ赤にして慌てていたのは彼女のほうだ。
 それはそれは大層かわいかったが、毎回あれでは落ち着けないだろう。

 だから今回は遠慮した。
 真向かいに座った彼女を、俺に見るなというのも無理な話である。
 互いに都合がよかったはずだ。
 客人である俺を差し置き、ひとりで飯を食べることに後ろめたさを感じてしまったのだろうか。

「あ、あれは……だって近かった、し」
「そうでしたっけ?」

 ぷりぷりと睨みつけて見上げる彼女がかわいくて、ついとぼけてしまう。
 俺のふざけた態度にムキになった彼女は、立ち上がって俺の隣まで移動してきた。
 グッと顔を寄せた彼女に驚いて、手にしていた味噌汁茶碗を落としそうになる。

 うぇおおぁ!?

「ちょっと。危ないです」

 危なかったのは俺である。
 突然の不意打ちに変な声が出るところだった。
 バクバクと一気に心臓が天にまで昇る勢いで暴れ始める。

「この距離」

 彼女自身だって照れているクセに、俺の心境などおかまいなしにぐいぐいと迫ってきた。

「れ、れーじくんは……慣れてるのかもしれないけど、私はまだ無理なの」

 仕かけた側からそんな頬を染めて扇状的に見つめるのは反則だ。
 距離はギリギリ耐えられるが、チラチラと俺の様子を伺う仕草には耐えられない。

 味噌汁茶碗を置き、深呼吸をして逸る気持ちを静めた。

「ごちそうさま……って、うわっ!?」

 その隙に、そそくさと俺の隣から逃げ出そうとする彼女を捕まえる。

「では無理じゃなくなるまで、こうしていましょうか?」
「へあっ!?」

 無理とか言いながら、無防備に近づいてきちゃうのだから愚かでかわいい。
 幸せすぎて溶けそうな心地だった。
 彼女の耳に俺の鼓動が聞こえるように、ゆっくりと抱きしめる。
 平常でいられないのは俺だって同じだ。

「がんばって慣れてくださいね?」

 言葉なく、力なく、小さくうなずいた彼女の頭を撫でる。
 互いの心音を合わせて境界線を曖昧にしていった。

11/10/2025, 12:08:10 AM