『冠の重さについて』
夜は、いつも同じ速さで落ちてくるわけではない。
急に暗くなる日もあれば、
いつまでも薄明が残り、世界が決断を先延ばしにしているような夜もある。
その日も、どちらともつかない夜だった。
瓦礫の街は、音を失って久しい。
崩れた建物の隙間を風が抜けるたび、
かつてここに生活があったことだけが、かすかに思い出される。
彼は、その中を歩いていた。
何かを探しているわけではない。
ただ、立ち止まる理由が見つからなかっただけだ。
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人は、いつから「選ぶ」ようになるのだろう。
幼い頃は、与えられたものをそのまま受け取っていたはずなのに、
いつの間にか、差し出されたものの中から
どれを選び、どれを捨てるかを決めなければならなくなる。
彼は、選び続けてきた。
守るために、捨てる。
その単純な構図が、次第に重くなることを知りながら。
捨てられたものは、消えない。
名前を持ち、形を持ち、夜ごと彼の中で息をする。
それらを総称して、誰かが「罪」と呼んだ。
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彼は、自分の頭にある見えない重みを、時折確かめる。
手で触れることはできない。
けれど、確かにそこにある。
王、と呼ばれたことがある。
その言葉に含まれる意味を、彼はよく知らない。
ただ、それは誰かの期待であり、
同時に、誰かの諦めでもあった。
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ある場所で、歌が聞こえた。
それは、街のどこにも似つかわしくないほど、
静かで、遠い音だった。
彼は、足を止めた。
止めた、というよりも、
それ以上進む理由が、ふと消えたのかもしれない。
⸻
少女が、ひとりで歌っていた。
観客はいない。
拍手もない。
それでも彼女は、歌うことをやめなかった。
歌は、言葉を持っているはずなのに、
彼には意味として届かなかった。
ただ、音の連なりとして、
胸のどこかに沈んでいく。
それは、慰めにも似ていたし、
責められているようでもあった。
⸻
「なぜ、歌う」
気づけば、そう口にしていた。
少女は振り返らない。
少しだけ、息を整えるような間があってから、
言葉が返ってきた。
「消えないものがあるから」
それだけだった。
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彼は、その言葉の続きを考えた。
消えないもの。
それが何を指すのか、わかっている気がした。
自分の中にも、同じものがある。
捨てたはずの選択。
救えなかった誰か。
取り戻せない時間。
それらは、消えない。
どれだけ遠くへ行っても、
同じ距離でついてくる。
⸻
歌は、まだ続いている。
彼は、その場に立ったまま、動かなかった。
何かが変わるわけではない。
世界は依然として壊れたままで、
彼が背負っているものも、軽くはならない。
それでも、ほんのわずかに、
重さの感じ方が変わった気がした。
⸻
歩き出す。
夜は、ようやく完全に落ちていた。
暗闇は、すべてを隠すようでいて、
本当は何も隠さない。
彼は、その中を進む。
見えない冠を、そのままにして。
外そうとすることも、
軽くしようとすることもなく。
ただ、それがあることを認めながら。
⸻
罪は、消えない。
だが、それでも人は、
それを抱えたまま歩くことができる。
歩くことしか、できないのかもしれない。
⸻
遠くで、まだ歌が続いている気がした。
振り返ることはなかった。
それでも、その音は確かに、
彼の中に残っていた。
3/22/2026, 3:05:01 AM