もしも僕の記憶の全てが作り物で、誰かの人生をなぞるだけのものだったら⋯⋯僕は僕だと言えるのだろうか?
例えば何らかの技術を用いて記憶のコピペが出来るとして、自身や他者の記憶に上書きしたら―――その人はどちらになるのだろう?
上書きされる前の自分? それとも上書きされた記憶の人?
そもそも、僕が僕である定義とは一体何なのか。そこが曖昧だからこの考察には終わりが無いのだと僕は思う。
僕が僕であると証明できるものが何なのか。
君が君であるという定義が何なのか。
あげようと思えばあげられるけど⋯⋯なら、そのあげたモノ全てを持っている人が居たら、僕や君になれるのかと、こんな風に堂々巡りしてしまうんだ。
証明する方法は無い。でも、僕は知りたい。
僕という存在の証明を⋯⋯ひいては人が人であるという定義を確立してみたい。
僕らは記憶に基づく存在なのか。
はたまた、別の何かで証明出来るのか。
考えれば、考えただけ様々な憶測が生まれ⋯⋯けれども、どれも真理にはほど遠い気がする。
思考の海の中で、今日も僕は溺れていく。
僕の記憶。君の記憶。誰かの記憶。
その全てを同じ尺度で体験し感じとれたとしたら、僕は僕のままだと言えるのだろうか?
答えは今日も堂々巡り。
いつまでもたどり着けないその問いに⋯⋯僕は今日も溺れていく。
3/25/2025, 1:27:41 PM