草臥れた偏屈屋

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「私には嘘をつかないで。気遣いと嘘は別物よ。」
王妃の侍女に選ばれ、働き始めの初日の一言目は挨拶ではなく振る舞い方の見直しだった。まるでヴィオラの音色のような彼女の声は、あらゆる事物の道理を諭されたような気分させられる。侍女の役割には王妃の話し相手、つまり友人とも言えるような間柄に近しいような存在でもあるとは思っていたが、彼女は友達作りというよりも騎士団を作ろうとしている気迫と荘厳さだった。
「では、ルナユロ夫人から仕事を教えてもらいなさい。」
筆頭侍女に続いて王妃の前から下がれば、同じ身分の侍女が3人と顔見知りになった。筆頭侍女はやはり最も王妃と並べられるに相応しい名家であったことは口に出す意味もない。これ以外の侍女は知らされないということは、王の愛人だったりするのだろうかと頭を過ったが、振り払った。それからというものの、茶会やら庭で与太話などはなく、秘書としての多忙な仕事を全うすることが多かった。王妃は王と共に多くの政策に携わっていた。そのためか、財務書記官、つまり王の秘書とも顔見知りになっていた。そのなかで興味深かったのは、やはり王妃の嘘嫌いだった。私は優しい嘘は時にはを役に立つと思っていたからこそ、そこまでは王妃が嘘嫌いになる理由を知りたかった。「おべっかに疲れている」などは的外れな気がするのだ。いつか王妃に聞いてみようとそう心に決めていた。

「王妃様、お休みのところ申し訳ないのですが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「どうぞ」
王妃の目は近くの椅子に遣りながら答えた。私は感謝を述べつつ、椅子に腰掛けた。
「王妃様は優しい嘘にはどうお考えでしょうか。」
王妃は少しの間を与えた。
「優しい嘘とは一体なに?」
「知らない方が幸せなことってあるではないですか。」
「王妃の私が知らないのって問題ではなくて?」
あらゆるものが生まれたときから決まっていた私たちがここまでの責任感を感じる根源はどこにあるのだろうか。いや、ただ王妃は生まれた責務を果たしているのだろうか。
「例えば余計な不快感を排除する故に交流において衝突を避けるなどとあります。」
「最初にお会いしたときから言いましたけれども、気遣いと嘘は違いますよ。」
私の解釈は「気遣って嘘をつくな」であったが、そこから間違っていたのだろうか。
「嘘は状況の改善を悪化させるだけです。早めに対処出来たものを遅らせてどうしますか。衝突を避けたいというのは介入したくないという意味です。それならば黙認、黙っていれば良いのです。また、判断が難しいですが言う必要性が無い場合も同じです。一方、気遣いというのは基準が曖昧なものに役立ちます。」
王妃は少しの間を与えた。私はただ黙っていた。
「優しい嘘は私には必要ないです。まず第一に私は知るべきなのです。勿論、私生活においても同様です。相手が「あなたのために思って」と言ったところで、酷な事実を私が受け入れられないと勝手に判断し、事実を伝えた責任を負いたくないという勝手な相手の責任逃れであるのは変わりはないです。私の事情は私が判断します。」
王妃のヘーゼルの瞳が私に向かう。私の息はいつの間にか止まっていた。しかし、不思議と苦しくなかった。
「第二に嘘とは違いここでの気遣いは譲歩とも言えます。例えばあなたが私好みとは言えない贈り物を私に差し上げたとしても私は喜びます。なぜなら、美の基準は人それぞれであり、そこに言及する必要はないのです。ここまでは、黙認と同じです。そこから、あなたが悪意を持っていると受け取れるようなあまりにも相応しくないものを送らない限りは、私は叱咤するどころか、あなたが時間を割いて選んだ贈り物という点で喜びます。そこにわざわざ嘘をつく理由など無いのです。観点を変えて「喜び」を見出している部分が黙認との違いです。」
「それなら、なぜこんなことに。あなたは何を間違えてこんな目に遭っているのですか。」
私は声を少し荒げて言った。しかし、王妃は表情を変えずにただあのヴィオラのような声で話を続ける。
「自身が何を話すのか何を黙るのか何を譲るのかは自由です。そして、心が保てないや知った事実を保てない様々な状況の人は知らない方が良いというのも一つの考え方で自由です。でも、私には嘘はやめなさい。私が落ち込もうとも何をしても本当はあなたに責任は無いのですから。これは所詮“私には”という個人で完結し、私の価値観の話なのです。」
私の双眼には涙が溜まっていく、伝えなければならない悲しい事実を私は知っているのだから。ヘーゼルの瞳は私の心を見透かしているのだった。なぜ彼女にこんな悲劇が訪れなければならないのか。私には理解できずに、受け入れられずに居た。それでも、王妃は私からの言葉を待っている。
「王妃様、長年あなたの横に居れられて嬉しいかったです。最期の日までお側に居ます。」
「ありがとう。それで、いつなの?」
「明日の朝です。」
「そう、今日はお話に来たわけでは無いのでしょ?」
「はい。御髪を切りに参りました。」
王妃は私に背を向け、その美しい御髪は地に落ちていく。女性にとっては大切なものとも言われる髪は私の手によって切り刻まれていく。しかしながら、あのヘーゼルの瞳はいつまでも沈む夕日を眺めつつ彼女の変わらぬ信念で燃えていた。


大切なもの

4/3/2024, 4:34:44 AM