お題【後悔】
『煤顔』
‘’____昔、私は、自分のした事に就いて後悔したことはなかった。しなかった事に就いてのみ、何時も後悔を感じていた。”
後悔、というものを考えると、私は中島敦のこの一節を思い出す。
そして、その高尚な挑戦の姿勢に、強烈な舌打ちを送りたくなる。
やらなかったことを悔やむなんて、どれだけ打率の高い人生を送ってきたのだろう。
私にあるのは、やってしまったことへの、おぞましいほど具体的な後悔だけだ。
しなかったことなど、記憶のゴミ箱にすら残らない。
しかし、してしまったことは、今も生々しい実体を持って部屋に転がっている。
あなたなら、どちらを選ぶだろう。
お洒落なカフェで、メニューの「パクチー激盛地獄ラーメン」を頼まずに一生「どんな味だったんだろう。」と夢想する、優雅で無傷な敗北者。
それとも、果敢に挑戦して注文し、一口目で激しくむせ返り、鼻から麺を出しながら涙目で完食する、無様な当事者。
私は、常に後者だ。
部屋には、数分前に私が焼き損ねた、炭一歩手前のトーストの焦げ臭い匂いが充満している。
窓を開け、換気扇を強に回す。煙の出どころを突き止めようと、トースターの蓋を開けて顔を近づけたのが運の尽きだった。ゲホゲホと激しくむせ返り、涙目で煙を浴びる。
「煙、出てるけど。」
「知ってる。」
声の主は、私のスマートフォンだ。
正確には、画面の向こうで通話状態のまま放置されている友人。
「またやったのね。」
「やった。ちょっと目を離しただけなのに、トースターが本気を出した。」
「あんた、学習って言葉知ってる?」
呆れ果てた声がスピーカーから漏れる。黙ってジャムでも塗っていればよかったのだ。しかし、私は追いバターをしてから再加熱という、美味しさの限界を突破する高度な挑戦に挑まずにはいられなかった。心臓が、情けないリズムで拍動する。
私はいつも、やらなくていい挑戦をして、自爆する。
「動かないよりマシでしょう。」
「その結果が、部屋の火災報知器との戦い?」
脳裏をよぎるのは、この手の能動的な過ちの残骸ばかりだ。
美容室でお任せでと口を滑らせ、仕上がりが完全に昭和の演歌歌手になったあの日。
深夜のテンションで、絶対に履かない高さ十五センチのピンヒールを通販で決済したあの夜。ゆで卵は爆発するものだと、身をもって知ったあの科学実験。
すべて、私の口が、私の指が、挑戦の旗を掲げて動いた結果の悲劇だ。
ねえ、教えてほしい。
失敗を恐れて、ただ安全なパンの耳だけを齧っている人間を、本当に生きていると言えるのだろうか。
トースターから黒煙が上がったあの瞬間、私の生存本能は、確かに狂ったように沸き立っていた。大きく息を吸い込むと、喉の奥がチリついた。大丈夫、煙はもう止まっている。
自分の両手を見る。
親指の先には、さっきの熱いトレイに触れたかすかな赤み。
この手は、余計なボタンを押し、そして炭を生み出した手だ。
後悔は、敗北とは別物だ。
痛むということは、まだ、あの過去を美味しくしたいと願ったエネルギーの証だ。
後ろを向いて、全力で地団駄を踏みながら、その反動で、身体は次の朝食へと押し出されている。
この焦げ臭い絶望が、私を「今」という現実のキッチンに繋ぎ止めている。
私は立ち上がった。
炭化した物体を、ゴミ箱に放り込む。
蛇口をひねり、冷水で手を洗う。
水の冷たさが、自業自得の肌に染み渡る。
鏡の中の私が、酷い煤けた顔で、しかし不敵に笑っていた。
私は、また間違えるだろう。
次は電子レンジで。
5/16/2026, 7:29:09 AM