胡蝶花

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『今日の心模様』


チャイムもノックの音もなく、ガチャリ、と鍵が回されてドアが開く。次いで「ただいま」と、低い声がリビングに響いた。毎日耳にする聞き馴染んだ音。それに「おかえり」といつものテンポで返す。
「今日はエビグラタンだよ」と言うと彼はコクンと頷いた。「お風呂入ってくる?」と聞くと、彼は「いや」と一言返して奥の部屋へ歩いて行く。着替えてくるようだ。

抑揚のない平坦な声と仏頂面からは、一ミリも感情は測れない。しかし、これは私たちの日常風景だ。彼は学生時代に「石像」とあだ名が付いたほど感情表現が苦手な人である。今日も至って普通、いつもと変わらないように見えた。
…が、シワの寄ったネクタイを私は見逃さなかった。
何となく彼の一日が想像できる。さてはあの人、いつもより落ち込んでいるご様子だ。いつもビックリするほど細かいことに目が向かう人なのに、ネクタイがシワだらけなことに気が付かないとは、かなり余裕が無いらしい。

着替え終わってリビングに戻ってきた彼に、早速問いかけてみる。
「今日の心模様は曇天のグレー、って感じ?」
一瞬の沈黙。これは図星だ。
「君は、本当に鋭いな」
眉一つ動きはしないけれど、彼なりに関心しているようだ。その反応に満足してキッチンへと向かう。後から彼も着いてきて、二人分のグラスとボトルワインを用意し始めた。私はグラタン皿をオーブンから取り出しながら「殿がご乱心であらせられるならば、ワタクシめは何時までもお話をお聞きしますぞ」とおどけて見せた。
彼の口元が少しだけ緩む。
安心しきった彼の表情。私はこの優しい瞳がたまらなく好きなのである。

テーブルの上には、湯気の立つエビグラタンが二皿、グラスが二つ、ワインのボトルが一本。二人で席に着き、いただきます、と手を合わせた。

2/14/2022, 11:34:14 AM