香草

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「酸素」

カツカツとハイヒールの音を鳴らす。病院の白い廊下には似つかわしくない音だが、私はあえてその音を響かせる。看護師と目が合ったので少し微笑んで会釈をした。
「あ、またお孫さんよ」
「毎日お見舞いに来て、なんていい子なんでしょう」
「それにしても羨ましいわ。若々しくて」
ヒソヒソと看護師の噂しているのを聞き流して、目当ての病室に向かう。
引き戸を開けると、大きな窓いっぱいの海とベッドに横たわり酸素マスクを付けた老人。
私は老人のそばに座るとしばし彼の顔を見つめた。昨日会った時より一段と老けた気がする。
病院特有の甘くて酸っぱい匂いと微かに聞こえる波の音。そして大袈裟な呼吸音。私と彼が出会った時に聞いた音に似ている。
私は彼の酸素マスクを外すと、その唇にキスを落とした。

一目惚れだった。と言っても顔はゴーグルと酸素チューブで覆われていて見えなかったけど。たまたま追いかけた魚が海面近くまで浮上したのが運の尽きだった。まさかあんなに深く潜れるダイバーがいるなんて。
人間にとって私たちの存在がどれだけ希少で興味深い対象なのかは理解している。だから私たちは暗く冷たい海の底でひっそり暮らしているのだ。
私を見つけた彼は驚いて、しばしフリーズすると、急に酸素チューブもゴーグルも全て外しだした。私はすぐに逃げようとしたけれどそれが人間にとってどれだけ危ない行為か知っていたので咄嗟に助けてしまった。
後に、あの時なんでゴーグルもチューブも外したりなんかしたの?と聞いたことがある。
彼は少し笑って言った。
「まったく敵意がないことを示したかったんだ。結局溺れたけどね、君の美しさに」
そしてウインクをした。

人魚の世界にはまだ魔法が存在する。でもそもそも人間と接触するのは禁忌だし、人魚を人間にする魔法も禁忌だ。私は2つのタブーを犯して彼と一緒になった。その代わり2度と母なる海に触れることはできない。それでもよかった。暗く冷たい海よりも太陽のように明るくて温かい彼といる方がずっと幸せだと思ったから。
私はシワシワになった彼の手を握った。
「水に浸かりすぎたのよ」
私は彼の手のしわをなぞった。かつて彼が私に教えてくれたことだ。人間の手は水に浸かりすぎるとふやけてしまう。私の手はどれだけ長くお風呂に入っていてもふやけることはなかった。永遠に冷たい私の手を彼はずっと握ってくれていた。

いつだったか調べたことがある。彼の頭に私と同じような真珠色の髪の毛を見つけた時だった。
ずっと見ないようにしていた現実を直視しなければならなかった。
彼が老いるのを少しでも遅らせるにはどうすればいいの?そんなものはないと頭では分かっていたのにたくさん調べた。
彼は申し訳なさそうに笑って言った。
「君を海から連れ出すべきじゃなかった。こんな酸素の多い世界、君も辛いだろう」
酸素が人体を老化させるらしいと伝えたからだろうか。彼なりに私を笑わせるジョークのつもりだったんだろう。大失敗したけど。
こんなに酸素が多いなら少しでも私を老けさせてみせてよ。若々しさなんていらない。永遠の命もいらない。彼と同じ時を歩ませてよ。何度そう願ったか分からない。しかしどれだけ酸素に浸かっても私の手はシワシワにならない。
私は彼の酸素マスクを外したまま病室を後にした。
背中に慌ただしい空気を感じながら外に出ると、ハイヒールを砂浜に脱ぎ捨てた。

5/15/2025, 4:27:10 PM