小砂音

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#61 さあ行こう

 祖父は、わたしが出発することを咎めも反対もしなかった。

「……分かった」

 夕餉の器からのぼる柔らかな湯気の奥で、微笑みながらただゆっくりと、そう言葉を紡いだだけだ。
 確かに、随分と長い沈黙はあった。だけど、案外それだけ? と思ったりした。
 わたしはまだ年端も行かない子どもで、自分の確固たる決意に逸り、愚かにも、ただ独りで満足していたのだろう。

「おじいちゃん。ありがとう」
「……そうだね、ヒビを連れて行きなさい」
「いいの?」
「ああ。この子は賢いし、お前によく懐いている。きっと役に立つし、守ってくれる。この先もずっと、そばにいてやりなさい」

 こんがりと焼けたパンと同じ色をした小型の獣は、とても優しい目をしている。祖父の提案にとてもうれしくなった。わたしはヒビを頭から背中、太い尻尾の先まできちんと撫でてから、「うん」と大きく頷いた。

 この日食べたスープとパンが、祖父との最後の晩餐になったことが、わたしのひどい心残りだ――。



「また思い出しているの? 旅に出る、前日の夜のことを」

 大きな狐の、その優しい眼差しから言葉が紡がれた。わたしは生ぬるい風の吹く崖のそばで、ピンク色に褪せる雲に視線を移した。

「……うん」

 だってあの日、祖父は自分の想いを飲み込んでいたんだ。寂しくなるね――その一言を。

「その代わりの言葉が、『愛しているよ。……もう時間だ、行きなさい』だったんだ」

 翌日の朝、出立のとき。祖父はこう言った。
 わたしは祖父の想いに気づかず、強く温かな抱擁を交わし、笑顔で手を振った。笑いながら、さようならをしたのだ。

「もらってばかりだった。おじいちゃんには、何もしてあげられなくて、返せなくて、寂しい思いまでさせた」
「そんなことはないさ」

 優しい獣はそう言って、額をわたしに押し付けた。わたしはそれを撫で返しながら、今夜は雨になることを悟った。

「さあ行こう」

 ヒビの真っ直ぐな視線が、気を取り直すようにそう言う。わたしは項垂れるように、小さく頷いた。

 そうだ、わたしは進まなければならない。
 育ててくれた祖父を置いてまで始めた旅の、きっとくだらない結末に向かって。

6/7/2025, 9:59:15 AM