悪役令嬢

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『ぬるい炭酸と無口な君』

静寂は、夜の帳を破る爆音によって打ち砕かれた。

「待てっ!」
「どうした?さあ、ここまで来いよ。ヒーローさん」

煙を上げるビルの屋上。仮面をつけマントを翻す
ヒーローと、クラウンメイクのピエロが、
月明かりの下で追いかけっこを繰り広げていた。

――

「申し訳ありませんでした」

上司の机の前で深く頭を下げる。

「君ね、こういうのが続くと、
我が社のイメージに傷がつくんだよ」

繰り返される定型文の謝罪。
もはや儀式のようなこの時間に、
心は擦り減っていくばかりだった。

――

「はあ」

男は行きつけのカフェの
窓際で微かにため息をつく。

度重なる敵の襲撃、味方の不祥事への対応、
市民からの非難や中傷、上からの責任追及。

ヒーローとしての職務が、
彼を深く疲弊させていたのだ。

一人静かに考えを巡らせたい時、男はいつも
このカフェを訪れる。かつては隠れ家のような
落ち着いた空間だったが、
メディアに取り上げられてからは客足が絶えず、
喧騒に包まれるようになっていた。

騒がしい店内でいつものコーヒーを
啜っていると、不意に声が降ってきた。

「相席、いいですか」

顔を上げると、顔立ちの整った好青年が
微笑んでいる。満席の店内。
断る理由もなく、男は頷いた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

青年はにこやかにお礼を言うと、向かい側の席に
座り、シトラスソーダを注文した。

グラスの中でシュワシュワと炭酸が弾け、
カランと氷が鳴り、
柑橘の爽やかな香りが漂う。

「ママー、アイスこぼしたー!」
「こら!大人しく座って食べないからでしょ!」

そんな親子の会話が耳に届く。

「どこに行ってもうるさいですね」

小さな声でぼやく青年。

「子どもは元気なくらいがちょうどいいですよ」
と、返す男。

会話はそれきりだった。

男は文庫本に視線を落とすが、
活字が頭に入ってこない。

理由は明白。
向かいの青年から注がれる視線。

熱を含んだ眼差しが、静かな圧となって
男の集中をそいでいた。

ふと目が合うと、青年の口元が弧を描く。

テーブルに置かれたソーダのグラス。
氷はすでに溶けて、
炭酸は音もなく沈黙していた。

――

今宵は街の名物、花火大会の日。地元民のささやかな楽しみだった祭りは、今や観光客でごった返し、
地面にはゴミが散乱している。

男は警備のため現地で待機していた。

夜空を彩る花火の音に紛れて、
どこからか悲鳴が上がる。
我先にと逃げ惑い押し寄せる群衆。

やつだ──。

ピエロは人波の向こうに立ち、
再会を喜ぶかのように手を振った。

「やあ、ようやく来てくれたね」
「またお前か」
「この前はありがとう」

――この前?
その言葉に、男は一瞬、記憶の糸を手繰り寄せる。
だが、すぐさま意識は現実へと引き戻され、
二人は対峙した。

足元では、誰かが落としたペットボトルが
踏み潰され、中に残っていた柑橘ジュースの
甘酸っぱい香りが広がっていた。

8/3/2025, 5:45:31 PM