氷室凛

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 現実世界で歌姫と呼ばれていた私はライブ中に倒れ、気づいたらこの摩訶不思議ワールドで目が覚めました。そして自らを魔法雑貨店の店長だと名乗る、不思議な、もとい怪しい青年と出くわし、端的に言えばここはあの世とこの世の境みたいな場所であり、ここで死んだら現実世界でも死ぬと宣告を受けてしまいます。
 まだ死にたくない私は元の世界に帰るために隠された「心」とそれを開くための「鍵」を探すため、インチキ魔法道具を貸してくるポンコツ店長とともに旅に出ることになったのでした。

 回想終わり。
 そしていま。


 私たちはさっそく死にそうでした。


「ちょっとおかしいよこれ! どうなってるんだい!?」

 次々と湧き上がる、人のような形をした黒い霧を焼き払いながら店長さんは叫びました。
 その後ろで店長さんから渡された火炎放射器のような魔法道具で同じく霧を焼き払いながら、私も答えます。

「わ、私に聞かれたって!」

 私たちは人型に揺らめく怪しい霧に囲まれながら、背中合わせに戦っていました。
 この霧がなんなのかはわからないけど、本能的ななにかで、捕まったらまずいってことだけはハッキリとわかります。

「こんな開けた場所にさ! こんないきなりモンスターが次々湧くはずないんだって! きみ、絶対なんかしたでしょ!!」

 度重なる不運のおかげで体力はもう使い切り、気力もほとんど底をつきかけています。この霧がいつまで湧いてくるのかも、この魔法道具からいつまで炎が出るのかも私にはわかりません。


 思えば、ここへ近づいていたときから周囲の様子は変でした。


 まず、やたらつまずく。
 気をつけているはずなのに、なぜだか一歩進むごとにつま先が地面に引っかかり、転んだ回数はもう数えるのを諦めました。
 荷物のほぼない私はともかく、店長さんは転ぶたびにどこかから明らかにそのスペースには入りきらないはずの荷物をぶちまけ、それを拾い集めるだけでけっこうな作業でした。


 お次は突然の雨。
 雲なんてどこにもない快晴だったはずなのに、嫌がらせのように突然空が灰色になって叩きつけるような雨が降り始めました。
 「こんなときは〜♪」と鼻歌まじりに店長さんが取り出した魔法道具は、その瞬間吹きつけた突風に飛ばされどこか遠くに飛んでいってしまいました。


 そんなこんなでやることなすこと全てがうまくいかず、しまいには一旦ご飯にしようと思えば皿ごとぶちまけ、諦めて座り込めばうじゃうじゃと虫が寄ってくる、そんな始末でした。


 そうやっていい加減ため息もつき疲れたころに出たのが、《アレ》でした。

 店長さん曰く、《アレ》もモンスターの一種らしいです。

 なんだろう……。パッと見は今いる黒い霧のボスみたいな、巨大な揺らめく黒い塊です。なのに……見た目はアイツらと同じようにモヤモヤしているのに、その奥はドロドロしてて、それでいて石みたいにずっしりと重いのが、すぐにわかりました。
 そして──私はその異形の怪物を、どこかで見たことある気がしました。現実世界の、どこかで。

 店長さんは「さすがに僕も疲れちゃったなぁ」なんて言いながら跳びあがって、またどこかから取り出した大きな槌を振り、ゆうに3mはあろうかというその化け物を頭から叩き割って一撃で粉砕したのでした。つよ。

 けれど私が店長さんを見直したのも束の間、今度はバラバラに散ったモヤの塊、そのひとつひとつが膨らみ人型となり──そしていまの状況です。

「これ、ラチが開かないね! 気づいた!? コイツら、向こうの方から湧き出てる! こっちは僕が引きつけておくから、きみ、そっちからぐるっと回って向こうに何があるのか確認してきて!」
「わ、私が!?」
「そっち側の方がいくらかこのモンスター少ないだろ!」

 確かに、この霧たちは店長さんの指す方向から溢れてこちらへ向かい囲んできているようです。

 ──ええい、ままよ!

 悩んでる時間もありません。私は火炎放射器で霧を蹴散らしながら走り出しました。

 炎を振り撒きながら走り、黒い霧たちを抜け、今度はその源泉へダッシュ。直線距離では行けず、遠回りしながらでもたまに阻まれ、それを焼いたらまたダッシュ。

 そしてなんとか黒い霧の発生源に辿り着き──そこにあったのは1冊の本でした。
 1冊の、開かれた本。

 燃やし尽くしてやろうと火炎放射器を向けて──なぜでしょう。
 私の体はなぜだか、炎を噴出させるボタンを押すのをためらいました。どうしてだかわからないけど、この本はものすごく大切で、これを灰にしたら自分の大切なものまで崩れ去ってしまうような気がしました。

 迷った私は恐る恐る手を伸ばし──そっと開いていた本を閉じました。

 ぱたん。

 軽い音とともにその本は閉じられ、それと同時に、あの数えきれないほどいた黒い霧は消え去っていきました。

「──あ。これ」
「ああーー疲れた疲れた! きみ、あそこからまだあんなに走れるなんて思わなかったよ! 意外と体力あるんだね!」

 ふらふらと近づいてきた店長さんに、現実世界では体力維持のために毎日走り込みをしていたからと答える元気はありませんでした。

 私が閉じた本。
 その表紙はよく見慣れたものでした。
 毎日寝る前に開いていて書き込んでいた──、私の、日記帳でした。

「……日記? きみの? ……。途中まで毎日書いてたのに、この日からぷっつり途切れてるね」

 勝手に拾い上げてパラパラとめくる店長さんを怒る気にもなれません。
 私はここに近づいてから起きていた不運な出来事がなんだったのか、すべて理解しました。



♢♦︎♢



 私が倒れたライブの、およそ1ヶ月前。
 その週は本当についていませんでした。

 1日目。人通りの多い道で躓き転び、持っていた荷物を往来にぶちまける。

 2日目。突然の大雨にあい、常備している折り畳み傘を開くもそれと同時に突風で傘は壊れ、ずぶ濡れになる。

 3日目。久々のオフでるんるん気分でご飯を作るも、机に運ぶ途中で落として皿を割り料理もダメになる。

 4日目。MV撮影のために森に行き、休憩でベンチに腰掛けたらそこには大量の虫がいた。

 そして、5日目。弁護士を通じて情報開示請求をしていた、度を越したアンチの本名がわかる。

 そしてその名前は──数年に渡って付き合いのある友人と同じでした。



 ……まあ、別に。数年って言ったって、たかだか2,3年だし。もっと付き合い長い友達、全然いるし。友達って言ったって、ものすごく仲良いわけじゃなかったし。陰でなにか言われるのとか、慣れてるし。

 そう思うのに──私はその後も湧いてくる別のアンチとレスバする気にもなれず、毎日かかさず書いていた日記を書くのもいつの間にかやめてしまい、そうしてライブの当日を迎え倒れたのでした。

「ははぁ……。これがきみの『心』か」

 分厚い日記帳を閉じる音が聞こえます。

「だいぶ疲れちゃってるみたいだし、これは僕が預かっておくね」

 すっかりへたり込んでいた私は、そう言った店長さんの顔を見ることさえできませんでした。




20240826.NO.34.「私の日記帳」

8/26/2024, 3:24:52 PM