雨が降っていた。
放課後の校舎は静かで、
窓に当たる音だけが、やけに大きく聞こえる。
「傘、忘れた」
__がそう言うと、〈君〉は少しだけ笑った。
「やっぱりね」
「なんで分かるの」
「そういう顔してた」
適当すぎる理由なのに、
なぜか納得してしまう。
〈君〉は自分の傘を軽く揺らした。
透明なビニール傘。
「入る?」
少しだけ迷う。
「いいの?」
「いいよ。どうせ同じ方向でしょ」
当たり前みたいに言う。
校門を出ると、雨は思ったより強かった。
傘に当たる音が、少しだけうるさい。
肩が、少し触れる距離。
それだけで、歩き方がぎこちなくなる。
「なんかさ」
〈君〉が前を見たまま言う。
「こういうの、久しぶり」
「こういうの?」
「誰かと一緒に帰るの」
意外だった。
「友達いないの?」
冗談っぽく言うと、〈君〉は少しだけ笑った。
「いるよ」
でも、そのあとに続いた言葉はなかった。
水たまりを避けながら歩く。
タイミングが少しずれて、
何度かぶつかりそうになる。
そのたびに、どちらかが小さく避ける。
「ねえ」
〈君〉が言う。
「雨の日って、ちょっとだけ世界が静かになるよね」
確かに、と思う。
音はあるのに、
いつもより遠く感じる。
「嫌いじゃない」
__が言うと、〈君〉は小さく頷いた。
「〈 〉も」
その横顔は、傘越しの光で少しだけぼやけて見えた。
「ここでいいよ」
分かれ道で、〈君〉が足を止める。
「ありがとう、傘」
「いや、こっちこそ」
少しだけ沈黙が落ちる。
雨の音だけが、間を埋める。
「じゃあね」
〈君〉がそう言って、少しだけ手を振る。
__も軽く手を上げる。
それだけ。
振り返ると、〈君〉はもう歩き出していた。
透明な傘の向こうで、少しずつ遠くなる。
次の日、雨は止んでいた。
教室に入る。
いつも通りの景色。
でも。
自分の机の横に、見覚えのないものがあった。
透明なビニール傘。
「あれ?」
手に取る。
見覚えがある気がするのに、
はっきり思い出せない。
「それ、誰の?」
後ろの席のやつに聞く。
「知らない」
即答だった。
「昨日からあった?」
「いや、知らん」
本当に知らなさそうな顔。
もう一度、傘を見る。
持ち手に、小さな傷がついている。
どこかで見たことがある気がする。
ふと、昨日の帰り道を思い出す。
雨。
静かな音。
隣に誰かがいた気配。
でも。
顔が、思い出せない。
「……誰だっけ」
小さく呟く。
その日から、__はその傘を使うようになった。
雨の日。
傘を開くたびに、
少しだけ世界が静かになる。
誰かと一緒に歩いていたような気がして、
でも、それが誰なのかは分からない。
ただ。
その時間が、嫌じゃなかったことだけは、
はっきり覚えている。
雨音の中で、ふと立ち止まる。
もしあのとき、
何かひとつでも、ちゃんと覚えていたら。
何か、変わっていたんだろうか。
透明な傘越しに、空を見上げる。
少しだけ滲んだ景色の中に、
思い出せない誰かの気配だけが、残っていた。
3/23/2026, 2:28:40 PM