『平穏な日常』
「あんた、だれ?」
フード付きのスウェットと、さらさらとした長髪。
赤縁のメガネの向こうから、鋭い眼差しがこちらを見つめていた。
「いや、ここオレの家だけど」
会社から帰宅すると、
1Kアパートの自室に、見知らぬ女性が転がり込んでいた。
季節は3月の中頃で、日中もまだ肌寒い。
いつも日没に帰宅する私にとって、紺のトレンチコートは、帰ってからもすぐには手放せない。
だというのに、今日は玄関入ってすぐ、
私の全身は今すぐコートを脱げと、汗が吹き出しはじめていた。
「おいこれ、何度に設定されてんだ」
半開きになった扉から、
真夏の室外機のような熱気が突き抜けていた。
あの向こうで、悲鳴をあげているエアコンのことを考えると、心と来月の電気代がいたむ。
早くあいつを止めてやらなければ。
訳もわからぬまま、靴を脱ぎ捨て、自室へと向かう。
しかしそこに、女性が立ち塞がる。
「不用心だから、鍵は閉めていたはずだけど、どうやって扉を開けたのかしら」
「それはこっちの台詞だよ」
彼女を払いのけ、今度こそ部屋へと向う。
中はサウナ室だった。
エアコンを止めるため、木製テーブルへと視線を向けるものの、
「うわ、何だよこれ」
普段から、リモコンしか置いてない筈のテーブルの上には、
ビニール袋と、バーガーやら牛丼やらの容器が散乱。
どうやらこの女、勝手に人の家に上がり込んだうえ、
デリバリーまでしたらしい。
「ほんと、不用心よね。パスワードはもう少し複雑にするべきだわ」
そういって、女性はベッドの上に転がったタブレットを指差した。
「まさか…」
慌ててスマホを開く。
クレジットの使用履歴を確認すると、正午と夕方に覚えのない金額があった。
合計、6千円。
1週間のランチ代が消えてしまっている。
まじで何なんだよ、この女は。
「ねえ、あれ見てよ」
絶望する私のことなどいざ知らず、女性は再びタブレットを指差す。
そこには、何かのドラマか映画の映像が流れていた。
どうせあれも、私のサブスクに決まってる。
「わたし、恋愛映画が好きで、よく観るんだよね。それも純愛じゃなく、どろどろしたやつ」
「だから、どうしたんだよ」
投げやりに尋ねると、ふっと不適な笑みが帰ってきた。
「ああいうのって、みてると安心するの。自分よりまだ、不幸な人が居るんだって。私の方が、平穏な日常を送れてんだって、…そう思うの」
だから、どうしたんだよ。
そもそも、どうやって入ったんだよ。
3/12/2026, 11:18:35 AM