光合成

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『初恋の日』

あれは若葉の爽やかな香りのする風がふわりと涼しく吹く日だった。
日が傾き始めた昼下がり、俺は駅のホームで電車を待っていた。電車は先程出発してしまったばかりで、次の電車が来るまであと7分ほどあった。

空はいつもより淡い水色をしていて、薄い膜のような雲が浮かんでいた。
風に押し流されてか、地球の自転のせいか、雲はゆっくりと右から左へ流れていく。
俺はそれをただ眺めていた。駅のホームは静かで、鳩の間抜けな鳴き声だけが響いていた。
辺りには見渡す限り誰もおらず、ベンチに座って足を投げ出しても文句は言われない。

ゆったりとした時間が流れていた。
鳩が1羽飛んできて、さっきまで呑気に鳴いていた鳩と身を寄せあっている。羽繕いをしあって、くちばしで啄みあっている姿を見つめる。
ふと、ホームに誰かが上がってくる足音がした。
同い年くらいの女性だった。
緩くウェーブのかかった栗色の髪と、柔らかな白色のワンピースが風でふわりと広がる。ワンピースからのぞく腕や足は陶器のように白かった。
女性はゆっくりと俺の前を通過してホームの一番端で立ち止まる。歩き方も立ち姿も上品で洗練されていた。
綺麗なひと。それが彼女への第一印象だった。
女性は茶色い斜めがけカバンから文庫本を取り出し、栞の続きから読み始めた。
電車が来るまで残り5分。

俺はそれとなく彼女の斜め後ろに立った。
同じ車両の2つ隣のドアの列。
怪しまれないように、平然を装う。
何の本を読んでいるのだろうか。
どこへ行くのだろうか。
名前はなんというのだろうか。
気になることが次から次へと思い浮かぶ。それでも声をかけるという発想は微塵も生まれなかった。
電車が来るまで残り2分。

読み終わったのだろうか、彼女は本をカバンにしまう。そして空を見上げ、小さく伸びをする。
その様子が昼寝後の猫のようで可愛らしかった。
彼女はまたカバンに手を伸ばし、今度は紙とペンを取り出した。
何かをサラサラと簡単にメモをして、それをまたカバンにしまった。
「まもなく、2番線に電車がまいります。危ないですので……」
ホームにアナウンスが流れる。彼女はカバンの紐に手をかけて肩から下ろした。
電車が来るまで残り30秒。

遠くの方から電車が走ってくるのが見える。
真っ直ぐな線路は距離の感覚を狂わせる。
夕焼けの始まるような、うっすらと淡いピンクとオレンジが雲に溶け込んでいる。
電車がホームをめがけて真っ直ぐ走ってくる。
レールを走る音が近づいて、銀色の車体が迫ってくる。
彼女がカバンを後ろに投げる。それはちょうど俺の足元に飛んできた。
そして、1歩踏み出した。
あっ、と思った。
彼女は優雅にターンして線路下を背にゆっくり倒れていく。
咄嗟に手を掴もうとする。
滑らかな彼女の手首に触れる。
するりとすり抜ける。
彼女と目が合った。どこまでも透き通っていて、どこまでも深い暗闇を宿したその瞳が忘れられない。
白いワンピースが宙に舞う。
電車が来るまで残り0秒。

けたたましい警笛音が当たりを包む。
彼女のワンピースは元からそうだったかのように、美しい鮮やかな紅に染まっている。
彼女の手の感触がやけに生々しく、触れた部分が熱を持っていた。
彼女のカバンからさっきのメモを取り出す。
中身を見ようか少し迷って、ホーム下の彼女を見つめてから、それをそっとズボンのポッケにいれた。
心臓が強く脈打つ。
この状況への興奮か、それとも。
5月の心地の良いある日、それは俺にとって生涯叶うことのない初恋の日となった。


2026.05.07
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5/7/2026, 10:56:54 AM