骨董品店で見つけた小箱は、
手のひらほどの大きさだった。
黒檀のような深い色合いに、複雑な幾何学模様が
彫り込まれている。店主は「開けてみな」と促したが、蓋は固く閉ざされていた。
「コツがあるんだ」
店主が側面を押すと、小さな音を立てて開いた。
中は空っぽだ。
「中身は自分で見つけるものさ」
店主はそれだけ言うと、
千円で箱を譲ってくれた。
帰宅したパンドは、早速箱を机の上に置いた。
開け方を何度か試すうち、コツを掴んだ。
カチリという心地よい音と共に淡い光が灯る。
光は次第に像を結び、
やがて映像のように動き出した。
そこに映っていたのは大学のキャンパス。
五年前、好きな人に告白しようとして、
できなかった日のことだ。
映像の中のパンドは、
躊躇することなく彼女に声をかけている。
「エリ、話があるんだ」
映像はさらに進む。エリの笑顔。
付き合い始めた二人。卒業式での抱擁。
パンドは息を呑んだ。
これは、あの時告白していたらという世界なのか。
箱を閉じると、映像はプツリと消えた。
――
翌日、パンドは仕事も手につかなかった。
帰宅するなり箱を開けると、
今度は違う映像が流れた。
就職活動の日。映像の中のパンドは、
商社に入社していた。高層ビルのオフィス、
海外出張、充実した表情。
今の地味な事務職とは比べ物にならない。
箱を閉じる。また開ける。
今度は、留学を諦めた日の映像。別の世界線の
パンドは、ロンドンで学んでいた。
パンドは気付いた。この箱は「選ばなかった道」を
見せているのだと。
それから毎晩、パンドは箱を開け続けた。
引っ越しを決断した世界。起業した世界。
結婚して家庭を築いた世界。
どの世界線の自分も、今の自分より輝いて見えた。
――
一週間後、パンドは会社を休んだ。
箱の前に座り込み、
何度も何度も開け閉めを繰り返す。
「もし、あの時こうしていたら」
箱を開ければ開けるほど、
現実の自分が色褪せていく。
鏡を見る。そこに映る三十路の男は、誰だ?
無数の「もしも」の末の、最悪の選択肢か?
――
二週間が過ぎた。
部屋は荒れ果て、ゴミが散乱し、
カーテンは閉め切られている。
箱だけが、暗闇の中で鈍く光っていた。
もう何度開けたか分からない。
何十回、いや何百回か。
箱は、同じ映像は二度と流さない。
パンドの人生のあらゆる分岐点を、
片っ端から見せているのだ。
震える手でもう一度箱を開けた。
骨董品店で店主が箱を差し出す場面。
首を横に振り、箱を買わずに立ち去る自分。
その後の映像は――普通の、でも確かに充実した日々。友人と飲みに行く姿。恋人らしき女性と
過ごす姿。仕事で評価される姿。
――箱を開けなかったパンドは、幸せだった。
パンドの手から箱が滑り落ちる。
「違う……違う!」
箱を掴み、床に叩きつける。
しかし、傷一つつかない。
窓から投げ捨てようとする。
しかし、手が箱を離さない。
いや、違う。離さないのではない。
離せないのだ。
自分はもう、箱を開け続けるしかない人間に
なってしまった。
「箱を開ける」という選択をしてしまった
世界線に、固定されてしまったのだと。
別の世界線のパンドたちは、
今もそれぞれの人生を生きている。
幸せなパンドも、不幸なパンドも、
挑戦しているパンドも。
でも、この世界線のパンドだけは違う。
永遠に「もしも」を眺め続ける。
決して手の届かない、別の自分たちを。
箱の底を覗き込むと、
小さな文字が彫られていた。
『一度開けたら、あなたはこの箱を開けた
人間になる』
パンドは笑った。
乾いた、空虚な笑い声が部屋に響く。
そして、また箱を開けた。
カチリ。光が灯る。
今度は、どの「パンド」が現れるのだろう。
お題「秘密の箱」
10/24/2025, 11:30:24 PM