sairo

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――いってきます。

それが妹の最後の言葉だった。
いつもと変わらない、休日の朝。玄関で靴を履く後ろ姿。
誰にでもなく告げた言葉に、家にいた家族は誰も答える事はない。
いつもと同じ妹の姿。日常の一ページ。
そのはずだった。



「いってきます」
「いってらっしゃい」

小さく呟いた言葉に返る声に振り返る。
末の妹が目を腫らしながら、唇を震わせていた。

「大丈夫?」

弟が末の妹の肩を抱き、背をさする。無言で首を振り俯いて、末の妹は袖で目元を拭った。
袖が濡れて、黒の色を濃くしている。微かに嗚咽が漏れるのを、視線を逸らして気づかない振りをした。
玄関扉に手をかけながら、同じ事を繰り返していると自嘲する。上の妹の時と同じ。言葉に気づかない振りをして、結果妹は帰ってはこなかった。

――いってきます。

妹の姿を思い浮かべながら、玄関扉を開ける。途端に入り込む雨の気配に、無意識に誰かを招き入れるように一歩脇に避けた。
誰もいない。それは玄関にいる誰もが分かっている事だが、その無意識の行為に何かを言う者はいなかった。
湿った空気が内へと入り込む。だが求める気配はどこにもなく、嘆息して傘を持ち外へと出た。
遅れて外に出る弟妹を待って、鍵をかける。傘を打つ雨の音に紛れて、弟が宥めるように呟いた。

「もう、母さん達の所にいるのかもしれないね」
「そう、だね。お姉ちゃんのための式だもの」
「お前みたいに母さんが泣いているだろうし、きっと側で寄り添ってあげているんだろう」

二人の会話に、妹を想う。
優しい子だった。お転婆でよく泣きよく笑う、そんな普通の妹だった。
今日のような、雨の降り頻る日だったのを覚えている。前日に末の妹が病気を煩い入院し、どこか落ち着かない空気が家の中に漂っていた。
病弱な妹は、高熱を出して入院する事が度々あった。
いつも、とは言えないながらも、慣れてきてしまった出来事。それでも心配は尽きない。
だからだろうか。家族は皆、妹の外出を気にも留めなかった。どちらかと言えば、妹のその自由さを疎んでいたようにも思う。末の妹が心配ではないのかと、自分も含めてきっと誰もが少なからず思っていた。
今考えれば、そんな事はないと断言出来るはずの事。病弱な末の妹を誰よりも心配し、大切にしていたのだから。
目を伏せる。手首に着けたビーズで出来た花の飾りのついた髪ゴムを、礼服の袖の上から撫でる。小さな髪ゴムは手首を締め付け痛みを覚えるが、今はそれすら愛おしい。
妹が残した僅かなもの。髪ゴムと、水色の動物の絵柄が描かれたハンカチ。そして大切にしていた、狐のキーホルダー。ハンカチは弟が、キーホルダーは末の妹が、自分と同じように今も身につけているのだろう。
それらはすべて、一駅離れた神社の社の前に残されていた。人の絶えた神社。後日調べた所によると、以前は厄落としで少しばかり名の知れた神社であったらしい。
紙で作った形代に厄を移し、御神木の側へ埋める。

妹も、御神木の根元に埋まっていた。


「私。お姉ちゃんと一緒にいたかった」

末の妹が、声を震わせる。
妹が消えた夜に、末の妹の病気は完治した。体の弱かったはずの末の妹は、あれから病気ひとつしてはいない。

「苦しいのも痛いのも嫌だったけど。お姉ちゃんがいない方が、よっぽど苦しくて痛いよ」
「……うん、そうだね。、俺も苦しい。苦しくて、死んでしまいそうだ」
「馬鹿を言うな」

弟の言葉を否定する。それは思っていても、口に出してはいけない事だ。
それは形代となった、妹の覚悟を否定する事になるのだから。
妹は誰にも、何も告げなかった。一人で覚悟を決めて、神社へと向かった。
優しい妹は、きっと家族の誰も巻き込みたくなかったのだ。

「兄貴」
「いい加減、俺達から解放してやるべきだ……ようやく見つかったんだから」

声が震える。
消えた妹が見つかった。目を逸らし続けた予想を現実として突きつけられ、淡い希望は打ち砕かれてしまった。
御神木の根元に埋まっていた妹は、二度と目覚める事はない。
生者が死者に未練を持ってはならないのだ。

不意に、背を撫でる誰かの手を感じた。思わず立ち止まる。
慰めるように、褒めるように触れるその手の温もり。愛しくて、耐えきれずに俯いた。

「お姉ちゃん」

背後から抱きつく腕に、そっと手を触れた。雨に濡れて朧気な輪郭を持った細い腕を辿り、手を繋ぐ。繋いだ後にその手を軽く揺するのは、妹の癖だった。

「遅いから、迎えに来たのか」

繋いだ手に少しだけ力が籠もる。傘の下、滴が落ちて輪郭を失っていく事を怖れて、傘を手放した。

「ごめん。弱い兄ちゃんでごめんな」

嗚咽を漏らす弟が隣に歩み寄り、繋いでいない手を取った。指を絡めて繋ぎ、握る。
弟もまた傘をたたみ、雨か涙か分からない滴が頬を伝い落ちていく。

「お姉ちゃん」

か細い声。背中に軽い衝撃が走り、末の妹の泣き声が聞こえてた。

「やっぱり嫌だよ。お姉ちゃん、ずっと側にいてよっ。見えなくても、声が聞こえなくてもいい。雨が降っている間だけでもいいから、側にいて」

末の妹の懇願に、繋いだ手が微かに震える。軽く揺らされ手を解く。
同じように弟も手を離した。離れていく手を追って、静かに振り向く。

「いや。やだよ。お姉ちゃん、おいていかないで。一緒に連れていってよ!」

泣きじゃくる末の妹を、優しい手が撫でる。しがみつく腕をさすり、震える背をあやすように叩く。
雨が降る間だけ、家の中で感じていた気配。妹の魂か、それとも自分達兄妹の執着が作り上げた何かなのか、それは分からない。
ひとつ言える確かな事は、どちらにしてもこのままではいられないという事。
妹が見つからぬ焦りと哀しみに項垂れ座るその隣に、そっと寄り添う温もり。妹の死を悪夢に見て魘される夜に、頭を撫でていた手の感覚。
姿は見えず、触れられず。声も聞こえない、気配だけの妹。
いつまでも自分達の執着の糸に絡め縛る訳にはいかない。妹のためにも、何より自分達のためにも。
末の妹を離すため、腕を伸ばす。だが他でもない妹によって止められ、泣く末の妹の手を取り繋いだ。
軽く揺する。しゃくり上げながら揺れる手を見て、末の妹は目を閉じ笑う。
泣くのを耐えた、不格好な笑い方だった。笑いながら深く呼吸をする。閉じた目から一筋滴が零れ落ち、末の妹はゆっくりと繋いだ手を解いた。

「――うん。もう大丈夫……大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちゃんと一人で歩けるから」

目を開けて、今度はしっかりと笑顔をみせる。数歩離れて傘を差す末の妹を見て、弟と視線を交わし頷いて同じように下がる。
手放した傘を拾い上げ差せば、妹は先導するように歩き出した。それに続いて、皆静かに歩き出す。
先を行く妹の輪郭の足取りは軽い。跳ねるようにステップを踏み、時にくるりと回る。
向かう先は自身の葬儀の場だというのに、その雰囲気は酷く楽しげだ。
嬉しいのかもしれない。形代として長く土の下に埋められていた妹は、ようやく供養され祀られるのだから。

小さな背を追いかける。
手首に着けた髪ゴムに触れる。声には出さず呟いた。
あの日の、妹の最後の言葉への返事と迎えの言葉を。

いってらっしゃい。
そして、おかえりなさい。

くるりと回る妹が、こちらを見た気がした。
風が頬を撫でる。髪を揺らして通り抜け、微かな声を耳元へ置き去りにしていった。

――ただいま!

降り頻る雨など吹き飛ばすような、そんな元気な声だった。



20250626 『最後の声』

6/27/2025, 11:31:57 AM