アシロ

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※創作百合


「いっ······!」
 がちり。というしっかりと明確な音を認識すると同時に、口内の一箇所を襲う燃やされているかのような激しい痛み。ああ、またやってしまった。そう理解するまでに要した時間はきっと一秒にも満ちていない。
「······ったぁあ······」
 右手に持っていた箸を反射的に弁当箱の上に乗せ、今しがた大層な傷を負ってしまった右頬を両の掌で覆う。しかし勿論そんな行動には何の意味も無くて、ジンジンと尾を引く痛みの中に微かな鉄味を感じ取りながら、私は暴れ出したい衝動を必死に堪えながらただひたすら痛みが何処かへ去っていくのを待ち、耐え忍ぶ。
 そんな私の挙動の一部始終を真正面という特等席で全て見ていた友人──美柑(みかん)は、心配をするどころか呆れたような眼差しで、まるでつまらない映画を鑑賞させられたとばかりの態度で机に片肘を置き、至極どうでもよさそうに口を開く。
「まぁたやってるよ。流石に見飽きたわ」
「〜っ、うるさいなぁ······!」
 私だって好き好んでこんなことをしているわけじゃない。でも、自分の意思でどうこう出来るものでもなかった。
「な〜にが悪いんだろうねぇ? どうにかなんないの? その変な噛み癖」
「今回は、その······二日ぐらい前から左側に口内炎が出来ててぇ······だから右側で噛んで食べてたら······」
「いつも通り“がぶり”、ってわけねー。ていうか、その左側の口内炎の話、あたし聞いてないんですけど?」
「う······、だって······」
 今まで必死に美柑から逸らしていた目を、ほんの少ぅし、そちらへ向ける。向かい合わせてくっつけている美柑の机の上。弁当箱の横に、まるで威圧感を放つかのごとく堂々と鎮座しているソレ。
「言ってくれればさぁ、ほら。あたしいつだって分けてあげるって言ってんじゃん」
 私の顔を下から覗き込むようにして見上げてくる美柑の瞳は綺麗な三日月の形で笑んでいて、ドラマの悪役もビックリな悪人顔で弁当箱の横のソレを人差し指で艶めかしく一撫でする。あまりの悍ましさについ「ヒッ」と恐怖に引き攣った情けない声が飛び出た。
「やめてぇ······! それだけは、それだけはぁ······!!」
 座っている椅子をガタガタと喧しく鳴らしながら背後へ後退し物理的に距離を取る私を胡乱げにジッと見つめ、次いでその視線を例のブツ──みかんへと移し暫し見つめた後······美柑は「ハァーー······」と深々と溜め息を吐いた。
「ったく······なぁんでそんなに毛嫌いするかなぁ? みかん」
 美味しいのに、とみかんを見遣りながらどこか寂しげに零す彼女の様子を観察しながら、ジリジリと椅子ごと元の位置へと時間を掛けてゆっくり戻る。
 そう、私は大のみかん嫌いだ。幼い頃、気付いた時にはもう既に手遅れなほどに苦手意識が染み付いてしまっていた。少し厚い皮を指で剥く感触とか、実にくっついている白い部分とか、口に入れた時に甘さよりも先に来る酸っぱさだとか······もうとにかく、何もかもが苦手でしょうがない。それに輪をかけて私のみかん嫌いに拍車をかけたのは、頻繁に作ってしまう口内炎の存在だった。「みかんは口内炎に効くからねぇ」なんて言いながら、同居していた祖母に半ば無理矢理馬鹿みたいな量を手ずから食べさせられたのだ。それが私にとって決定的なトラウマとなってしまったのは言うまでもない。
 そう、私はみかんが嫌いだ。みかんのことが大嫌いだ。そのはず、だったのに。
「じっちゃんばっちゃんが農家やっててさぁ、この時期になると大量に送り付けてくんの」
 いつのことだったか、今日みたいに昼休みに一緒にご飯を食べていた時。毎回デザートとしてみかんを必ず持参してきていた彼女に理由を聞けば、そんな答えが返ってきた。「好きだから全然いいんだけどね〜」と笑いながら、みかんの皮に親指を突き立て、濃いオレンジ色を丁寧に剥いていく細くて白い綺麗な指。手元に視線を落としていることで伏し目になったその瞼から伸びる、黒々とした長い睫毛。食べるのが余程楽しみなのであろう、ゆるやかに弧を描く口元はほんのりとリップで淡く色付いていて。本人曰く天然らしい、太陽の光を受けた少し明るい茶色の髪には、天使の輪が神々しく乗せられていた。
 あの時、私は思ってしまった。考えてしまった。彼女に愛されるみかんが羨ましくて、憎らしくて。みかんなんかよりも彼女の方がずっとずっと美味しいに決まっている、なんて。
 そんな、馬鹿げた、戯言を──。
「ほれ、あーん!」
「むゥ!?」
 不意を突かれた唇はあっさりと開かれ、押し付けられた“何か”を何の抵抗もせず口内へと受け入れてしまう。鼻で感じる匂い、舌で確かめる感触、ゆっくりと慎重に歯を立て破いた薄皮。瞬間、中の果肉が“ぐちゅり”と果汁と共に飛び出る。ああ、酸っぱいよ。さっき噛んだところに染みて痛いよ、馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿。
「この美柑様のみかんが食えぬと申すかー! なんちゃって〜」
 文句の一つ、いや二つでも三つでも言ってやりたいところだったけど、今はまだ口の中に憎きアイツが居らっしゃるので。食べ物を口に入れたまま喋るのはマナーとしてどうかと思うし? 仕方なく、本当に仕方なく、抗議をすることは我慢したけど。
「早く治せよ〜、口内炎」
 ニッといたずらっ子みたいな表情で笑う美柑を見たら、例え口のなかに何も入っていなくても、きっと私はどんな言葉も紡げやしなかった。
 ああ、もう、本当に。
 憎いよ、みかん。
 狡いよ、みかん。

12/29/2024, 12:56:58 PM