桜四十郎

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「星が溢れる」
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眠れない夜。
寝台の帳を開けて、足を降ろした。

屋敷の外まで歩みを進めると、ひんやりとした夜風が劉備の長い髪を撫でていく。

気持ちの良い風だ。

星が瞬く空に向かって、両手を高く突き上げる。
ぐーっと大きな伸びをすると、視界の端に橙の揺らめきが映った。

目をこらすと、焚き火の灯りの中に一人の人影が見える。

こんな夜更けに、何者だろうか。

無闇に近づくのは危険かもしれないが、なんだか呼ばれているような気がして、無意識にその人影に向かって歩いていた。

少しずつ橙の灯りにその輪郭が映し出されていく。

背中を樹幹に預け、片膝を曲げて座っている人物は、目を閉じたまま瞑想をしているのか眠っているのかよく分からない。

そのすぐ隣に並ぶように、劉備も腰を下ろした。

「......無名」

独り言のように呟くと、その瞼が伏せ目がちに開かれた。

「やはり、起きていたな」

澄んだ暁天の瞳がこちらを捉える。
劉備が笑いかけると、無名は目を丸くして驚いたような表情を見せた。

「劉備......髪を結っていないのか」

無名に指摘されて初めて気がついた。
髪を下ろした状態で、しかも中衣一枚だ。

胸の辺りまではだけた自身の衣が目に留まる。

「あ......はは、すまない。おおよそ人前に出る格好ではなかったな」

顔が熱い。
少しでも体裁を整えようと乱れを直そうとする。

「気にしなくていい」

劉備の動揺を見ていた無名の表情がふっと緩んだ。

無名はおもむろに黒い袍を脱ぎ、それで劉備の身体を包み込むように覆った。

「......!」

袍に残る温もりに、まるで抱きしめられているかのようだ。

「む、無名!こんな...おれは大丈夫だ!」

「着ていてくれ劉備」

突き返そうとしても、再び包まれてしまう。

「貴方は綺麗だ。......他の人に見せたくない」

そして、まんまと丸め込まれてしまった。
まったく...どの口が言っているのだろうか。

「......ありが...とう...」

黒の中衣姿になった無名が満足そうに頷く。

普段は華奢に見えるが、こうして見ると意外と筋肉質な体つきをしているんだな。

こんな筋肉美と整った顔立ちを晒しておいて...
綺麗なのはそっちじゃないか。

美しさに見蕩れていると、無名は焚き火の炎を見つめながら口を開いた。

「炎を見ていると......何か思い出せそうなんだ」

パチパチとした火の粉の音が響く。

無名から過去の話を持ち出してくるのは珍しい。

「おお、そうか!記憶が戻りそうなのか?」

「いや...ハッキリとは......。ただ、大切なことを忘れている気がする」

ドクンと、鼓動が早くなるのを感じた。

「大切なこと...か」

失っていた記憶が戻るのは喜ばしいことなのだが。
それを思い出すことで、果たして無名の心にどれだけの影響を与えるのだろうか。
もし思い出したくない記憶なのだとしたら...?

それ以上思い出して欲しくないと思ってしまうのは、無名のためなのか。それとも......

「大切な人に、会わなきゃいけない」

......ああ、なるほど。

「大切な誰かが、いたのだな」

おれは、無名がここから去ってしまうことを恐れているのか。

「何度も、いつかの幻覚を見ている。でも、名前も、どこで何をしているのかも思い出せない」

無名は炎を見つめたまま、苦悩の表情を浮かべている。

その姿を見て
ああ、まだ大丈夫だ
と安心してしまった。

おれは......最低だ。

「無理に思い出さない方がいい。大切な記憶なら、きっと時が来たら思い出せるだろう」

「......そう、だろうか」

「ああ」

それでも、まだ繋ぎ止めておけるなら......

劉備は無名に優しく微笑みかけた。

「何も心配はいらない。おまえの居場所はここにあるのだからな」

長い灰茶色の髪が揺れる。

視線をこちらに向けた無名の表情は柔らかくなり、安心したように笑った。

「......感謝する」

最初から、分かっている。

おまえの還るべき場所は、ここじゃない。

ただ、今だけは......
この鳥籠の中で愛でることを許して欲しい。

劉備は真っ暗な空を見上げた。


無数に輝く星々が、
おれを嘲笑っているような気がした。

3/16/2026, 8:59:29 AM