現実逃避
『彼岸の町』
浴室を真っ暗にすると、時々浴槽の底からボンヤリとした光が見える。
水面を掌でかけば、たちどころに消えてしまう仄かな灯。
それを消さぬよう、つま先からそっと湯船に入る。
身体の周りを光の玉が飛び交っているのが分かる。
やはり手で光に触れることは出来ない。
それを捕まえるには、潜るしかない。
私は息を止め、頭のてっぺんまで湯に浸かる。
そうすると蛍の様な夜光虫が尾を引いて飛んでいるのだ。
更に潜ると、浴槽の底は穏やかな川面になっている。
対岸には橙を灯した美しい町並みが見える。
浴槽の上から見えたボンヤリした光は、夜光虫ではなく町の灯だったのだ。
その川は湖の様に広く深く、とても泳いで渡れそうにはない。
夜光虫の群れが水面を滑るように飛んでいく。
彼らはあの町を目指している様だった。
不意にパチリと浴室の電気が点く。
「お姉ちゃん、また真っ暗でお風呂入ってる」
脱衣所に居るのは5つ下の妹の様だった。
「良いでしょ。勝手にさせてよね」
「良くないよ。私電気点いてないからお風呂に入る準備してたのに、びっくりするからやめてって」
妹の気配が去る。
浴槽の縁に首を預け、湯気に霞む天井を見つめる。
水底の風景について誰かに話したことはない。勿論、妹にも親にも。
やはり、あの町は幻なのだろうか。
光の夜光虫を紡いで橋をかければ、対岸に行けるだろうか。
あの町に行ってしまったら、戻って来れない気がする。
でも、それでも良いんじゃないか。
社会人になって3年が経つ。
夢中になれることもなく、日々のルーチンのみで時は走り去ってゆく。
心の中ではいつも、あの幻の町を見つめている。
仕事中、友人との買い物中、あの灯が無性に懐かしく思える。
きっと今日も、私はあの川面から対岸を見つめるだろう。
行けば決して戻れぬ彼岸であったとしても。
2/28/2024, 9:52:55 AM