#73 胸の鼓動
皆、踊りや酒に耽っていた。
だから、はじめは場に興奮しているのだと思った。
そのくらい些細な変化だった。
妃の一人であるエレオラは、不規則な鼓動を刻み始めた胸を思わず押さえた。
(毒…どこから、誰が。いえ、それより)
王の名の下に開かれた夜会。それなりの時間が経っており、やや遅効性の毒物によるものと思われた。
必ず相手を突き止めて責任を取らせると決めたが、それは後回しにする。まずは解毒が先。
取り巻きに声を掛けようとしたが、
「なんてこと…」
会場には、あちらこちらで苦痛に喘ぐものばかり。
異様な光景に、しばし鼓動の跳ねる痛みを忘れて呆然とした。
そうしているうちに、あることに気づく。
-いない。使用人が誰ひとりとして。
雅な音楽を奏でていた楽団ですら姿を消している。
その意味するところを悟り、目の前が暗くなる思いがした。毒にやられ、もはや意地だけで保っていた姿勢を維持できず、へたり込んだ。
「ふむ。思っていたより、いい眺めだな」
聞き覚えのある声。主催でありながら緊張させない為と言って自らの姿は見せなかったのに。
驚きに顔を向けようとしたが、鼓動のたびに増す胸の痛みに、ゆっくりとしか動かせなかった。
「へいか…なぜ…」
小さな声であったが、室内では既にかすかな呻き声しか聞こえず、その耳に届いたようだ。
「なぜ?それを言うなら、なぜ其方は、私の踊り子を死に追いやったのだ。其方たちには確りとした身分と贅沢を与えてやっただろう。それでも国が傾かぬよう、豊かにしてやっただろう。私はあれを愛しただけであったのに」
ドクン、と一際強く鼓動が跳ねた。その苦しさに顔が歪む。
「あれの娘がな、母親そっくりの顔で言うのだ。『一緒に踊りましょう』とな。もう私の鼓動は跳ねることはないと思っていたが。なんと悦なことよ」
ついでに風通しを良くしたから、あれの願い通り今後は民にも富が行き渡るようになるであろうよ。
その言葉を最後に王は去っていく。
衝撃に引き留めることも出来ず思考が止まる。
ぷつんと糸が切れた人形のように身体が倒れた。
もう何年も前のこと。
王ですら忘れたと思っていたのに…
次第に寒気を覚えるようになり、いよいよ死を覚悟したとき。
「ここまで、本当に長かったですわ」
目の前でドレスの裾がふわりと広がり、少女の顔が近づいてきた。
王の愛を奪った忌まわしい踊り子に似た顔の娘。どこか王の面影も感じる。
母の身分が低いとはいえ王女を害するリスクも高く、王が娘に興味を持つ様子が無かったから放っておいた。それが。
怨嗟の言葉ひとつも掛けたかったが、
もう体の自由がきかない。
あんなに激しく打っていた鼓動は、
どんどん弱くなっていく。
その心許なさを最後に、意識は途切れた。
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前話の別視点
踊り子は、踊り子のまま。
王は愛していても身分を与えないことで他の妃と一線を画し守ろうとしていました。自分を嫌いになったときは旅に戻るのを許そうとも。
前話で「元々」とあるのは、周りはそう見ていなかった、ということです。
9/9/2023, 12:09:07 AM