「たそがれてんね。」
咲華はその声の方へ首を動かした。
藤間だ。
いつの間にか咲華の自室へ堂々と入っていた彼。
壁にもたれるようにして立ち、同じ地を踏んでいるにも関わらず上から見下ろすような視線でこちらを見ていた。
「目になんも映ってなかったよ。」
「……考えごとをしていたの。」
咲華は椅子から立ち上がる。
長い茶髪が窓から入ってきた風によってなびき、彼女の柔い肌をくすぐった。
「君が? そのつるつるな脳みそに悩みという二文字は存在するのかい?」
「なやみは三文字よ。」
「そういうところだって。」
藤間は左手で顔を覆いながらけらけらと笑った。
「ほんとう、君はピアノに触れていなければただの馬鹿やろうだな。」
ひとしきり笑って大きく息を吐いたのち、藤間は古びた木製椅子に腰掛けた。
その隣にはこの部屋で唯一埃をかぶらずに鎮座するグランドピアノがある。
艶々の黒は藤間の痩せた顔を反射させていた。
「弾いてよ、一曲。」
「なんでもいいの?」
「ああ、おまかせで。お前が今一番上手く弾けそうな曲がいい。」
「……分かった。」
咲華は手首に付けていたシュシュを取り茶髪を一括りにしばり上げる。
彼女のおっとりと目尻の下がった顔が少しばかり引き締まり、左頬に佇む黒子が姿を現した。
スカートにつく跡なんて考えず大雑把にピアノ椅子へ座る姿も実に彼女らしい。
蓋を開けると鍵盤へ指は下ろさずに瞼だけを閉ざした。
(……窓から入ってくる風がきもちい。空も藤間がくれたビー玉みたいできれい……誰かが教えてくれたのを覚えている。このうつくしい時間のことを呼ぶ名前。なんだっけ。)
夕日の赤さが印象的。
でも空の上のほうはまだ少し青みがかっていて不思議な感じ。
咲華は昔の記憶を探る。
手入れされていないぼうぼうの雑草に手を突っ込んでいく。
普段は届かない場所まで神経を研ぎ澄まし、絶え間なく続いていたそよ風が一瞬だけ動きを止めた時、彼女は目を開いた。
「……たそがれ。」
10/1/2024, 10:23:23 AM