「幸せに」
そう言って、大切な人たちに向けて手を振った。
幸せになってほしい。心からそう思う。
「さようなら」
届かない別れの言葉が、風に攫われていく。春の嵐の強さに目を細めながら、微笑みを浮かべ空を仰いだ。
新たな始まりに相応しい、雲一つない青空。彼らのこれからの幸せを表しているようだ。
別れを寂しいとは思う。けれどそんな感情は、しばらくすれば雪解けのように消えてしまうのだろう。
そんなことを思いながら、彼らに背を向け歩き出す。
振り返りはしない。そんな未練は持ちたくなかった。
「強がり」
どこからか声が聞こえ、足を止めた。
辺りを見回す。咲き綻ぶ桜の木の下でこちらを見つめる小さな影を認め、歩み寄る。
「泣けばいいのに」
拗ねたような呟きと共に、腕に抱えた鏡をこちらに向けられる。
「っ……」
底に映る自分の姿に思わず眉が寄った。
はらはらと、声もなく自分自身。小さくて弱い、本当が鏡に晒されていた。
「幸せに、なんて綺麗な言葉で誤魔化さないで、泣けばよかったのに。置いていかないでって、手を伸ばせばよかったんだ」
「そんなこと、できるはずがない」
「できたよ。できたのに、しなかっただけだ」
その言葉に、鏡を睨みつけながらも鼻で笑った。
確かに、手を伸ばすことはできたのだろう。行かないでと、言葉にすることも簡単にできた。
けれどそうして本心を晒してしまった瞬間に、きっと自分はその場から動けなくなるのだろう。先にも進めず、戻ることもできない。ただ立ち尽くしているだけなど、そんなこと許せるはずがなかった。
「皆の幸せの邪魔になる私を、私は認めない。強がりだろうと、本当を隠しているだけだろうと、皆が先に進むためなら私は笑ってみせる」
鏡の中の自分の姿が揺らいでいく。笑い合い、無邪気に遊んでいた頃の幻を最後に映して、鏡は何も映さなくなった。
「強がり」
静かに嘆息して、鏡を抱いたまま彼は言う。
呆れたように、それでいて悲しげに微笑む目が、まるで泣かない自分の代わりに泣いているように見えた。
「それなら、あなたの幸せはどこにあるの?」
思わず、目を瞬いた。
少し遅れて彼の言葉の意味を理解し、笑みが浮かぶ。彼の優しさを嬉しいと思うのと同じくらいにこそばゆくて落ち着かない。
彼の目を見据える。たった一つしかない答えを誇らしげに告げた。
「皆が、立ち止まらずに幸せになってくれること。それが私の幸せ」
皆と同じように進めなくなってしまった自分が願えること。それは強がりでも、誤魔化しているわけでもない、本心だった。
その答えに、今度は彼が目を瞬いた。何も映らない鏡に視線を落とし、眉を寄せて呆れたように息を吐いた。
「お人好し」
「皆が優しいだけ。何年経っても忘れず、会いに来てくれるから」
それだけで十分だった。
たくさん話を聞かせてくれる。少なくとも、自分にとってそれが何よりも幸せだ。
彼らの門出を見届けることができたのだから、自分も同じように先に進むべきだろう。
「――そろそろ行かないと」
そう告げれば彼は鏡を一瞥し、こちらに向けて差し出した。
意味が分からず彼を見る。
受け取れということだろうか。何も言わない彼を不思議に思いながら、差し出された鏡にそっと触れた。
「あ……」
その瞬間、鏡は手の平に収まるくらいの光になる。ふわふわと辺りを漂い、手に擦り寄るようにしてそのまま吸い込まれて消えていく。
「餞別。強がりでお人好しなあなたが、次の世界では一人で置いて行かれることのないように」
穏やかに告げて、彼は手を取った。光が吸い込まれた場所を軽く撫で、手を繋ぐ。
軽く引かれて、手を繋いだままゆっくりと歩き出す。その優しさに、お人好しなのは彼の方だと心の中だけで呟いた。
滲む視界を誤魔化すように見上げた空は、変わらずどこまでも広く青い。吹き抜ける風が草木を揺らし、色とりどりの花びらを舞い上げていく。
とても幻想的で、泣きたいくらいに美しかった。
「泣き虫」
「うるさい。おせっかいのお人好し」
「人間じゃなくて鏡なんだから、お人好しというより物好しじゃないかな」
揶揄い交じりの言葉に、涙を拭いながらバカとだけ返す。
母の鏡。大切にしていたはずのそれを、母は自分の代わりにと一緒に入れてくれた。
母が知ったらどう思うだろうか。呆れるのか、それとも父を重ねて懐かしむのか。
ふと、風に乗って名を呼ぶ声が聞こえた。一度だけ立ち止まり、振り返る。
自分の大切な人たちがこちらを見ているような気がして笑みが浮かぶ。届くことがないと知りながら、繋いでいない方の手を高く上げる。
「幸せに!」
そう言って大きく手を振った。
どうか幸せになってほしい。そう心の中で願えば、繋いだ手を軽く引かれた。
「誰かの幸せを願うなら、まずあなたが幸せにならないと」
彼の言葉に、それもそうかと思う。もう一度手を振って、さらに大きく声を上げた。
「私も幸せになるため次に進むから!」
息を呑む音がした。
皆が驚いたような顔をする。泣きそうに、何かを言いたげに、こちらを見つめる。
けれど何も言わず。その代わりに、同じように笑顔で手を振り返してくれた。
4/1/2026, 6:09:15 PM