輪手輪ダーリン

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“忍情沙汰”

悠一は、夜の闇に溶け込むように歩いていた。街灯も少なく、静寂が支配する街の中で、彼の足音だけが異様に響くような気がした。どこか遠くで犬の鳴き声が聞こえるものの、それさえもこの深い闇に吸い込まれていく。空気はひんやりと冷たく、指先がかじかむような感覚さえあったが、それでも悠一はひたすら歩き続けた。

目的地は、彼女の家だ。最初はただの興味だった。しかし、それが次第に執着となり、彼女の毎日の動きや習慣を知るうちに、無意識のうちに、彼女の存在が彼の生活の一部になっていった。目の前に現れるその家を、今夜こそは手に入れるような、そんな気がしていた。

家の前に立つと、悠一は立ち止まり、息を潜めた。窓の明かりはすでに消えていて、彼女が寝ていることを示していた。ゆっくりと周囲を見回し、誰かに見られないように細心の注意を払いながら、彼は家の裏へと回った。背中が冷たい壁に触れる。すぐそこには、彼女がよく出入りしている裏口の窓があった。あの窓が少しだけ開いていることを、彼は確認していた。

今のこの瞬間が、時間が止まったように感じられた。周囲の音がすべて遠のき、ただ自分の心臓の鼓動だけが強く響いていた。悠一は手を伸ばし、静かにその窓の縁に触れる。ほんのわずかな力で、それはすぐに開き、ほんの少しの隙間が出来る。その隙間を通り抜けるために、悠一は体をしなやかに動かし、静かに、まるで夜の闇に溶け込むようにして中に入った。

中に足を踏み入れた瞬間、急に空気が重く感じられた。ひんやりとした室内の温度が、彼の肌を冷たく感じさせる。暗闇の中で目が慣れていくのを待ちながら、悠一は静かに歩を進める。何度も何度も足音を立てそうになるのを必死で抑え、呼吸さえも聞こえないように息を呑む。

家の中は、どこか彼女の生活の香りが漂っている。彼女が触った家具、置かれた小物、彼女の痕跡がすべて悠一を包み込み、それらの一つ一つが、今や彼にとっては宝物のように感じられた。

足音を忍ばせながら、ゆっくりと彼女の部屋の方向へと進んでいった。廊下を渡り、ドアの前で一瞬立ち止まる。もうすぐだ。彼女の寝室の扉に手をかけると、その冷たい感触に、思わず身体が震えそうになる。しかし、それでも悠一は引き返すことなく、そっとドアを開けた。

そして、目の前に広がる暗闇の中で、彼女の寝室が彼を待っていた。

悠一の心臓が、胸の中で無情に打ち続ける。暗闇の中で息を殺し、部屋の中を見渡す。目が慣れてくると、彼女の寝室がぼんやりと浮かび上がった。薄明かりの中、整然としたベッドが彼を迎え入れる。

しかし、悠一の目はすぐにベッドには向かわない。彼女が寝ているかもしれない場所ではなく、目を向けたのは部屋の隅、薄暗いクローゼットだった。そこに隠れたときの、見つかることのない安心感を想像した。目を閉じると、彼女の寝室に足を踏み入れてからこれまでの瞬間が、一気に過去のもののように感じられた。

ただ、今は何もかもが静かすぎる。ほんの少しでも音を立てたら、すぐに気付かれるかもしれない。悠一は深呼吸をして、動きを慎重に進める。クローゼットまでは、数歩だけ。しかし、その一歩一歩が重く、全身に緊張を与えていた。床の板がわずかにきしむ音が、彼の耳に響く。まるでその音だけが、部屋全体に広がり、彼の存在を示しているかのようだった。

彼女のベッドに目をやると、毛布がこんもりと膨らんでいるのが確認できた。寝息もかすかに聴こえてくる。悠一は思わず立ち止まり、深く息を吸い込む。心臓の鼓動が、今まで以上に激しく胸を打つ。だが、後戻りはできない。

彼は再び歩き出す。足音がわずかに響き、鼓動が耳に届く。静寂が重く、ずっとその一歩ごとに身が引き締まるような感覚を覚えた。クローゼットの扉の前に辿り着くと、無意識に手が震えるのを感じた。扉はほんの少しだけ開いている。彼女が使っているものが見えそうで見えない、その微妙な隙間が、かえって悠一を引き寄せる。

目を閉じ、手を伸ばす。クローゼットの中に入るためには、静かに扉を押さなければならない。悠一は深く息を吐き、少しずつその扉を開けた。静かな音を立てずに、扉を動かす。その音がまるで重い錘のように響くと、彼の手が一瞬だけ止まる。だが、何も起こらない。悠一は静かに踏み込んだ。

クローゼットの中は、暗く湿った空気が漂っている。周囲の服や布が、ほんのわずかに揺れる音を立てた。それらの音すら、悠一の耳には響く。彼の足元に散らばる衣服を、慎重に避けながら前に進んでいく。閉ざされた空間の中で、息が詰まりそうになる。だが、他に選択肢はない。

一度足を踏み入れれば、もう後戻りはできない。悠一はクローゼットの隅に身を潜め、少しずつ息を整える。その空間に閉じ込められたような感覚が、まるで彼自身がその一部になってしまったかのような錯覚を生んでいた。

悠一はクローゼットの中で、息を殺して身を縮めていた。静まり返った部屋の中で、彼女の動きが全てを支配している。

どれほどの時間が経っただろうか。
ベッドから、ほんの少し布団が引きずられる音が聞こえた。最初はわずかな音だったが、次第にその音がはっきりとしたものになり、悠一の心臓はそれに合わせて鼓動を早めていった。

その後、ベッドがきしむ音がした。彼女が体を起こしたのだ。悠一はその音を耳にしながら、無意識に体を硬直させた。さらに彼女の動きが続き、今度はベッドから降りる足音が床に響いた。悠一はその一歩一歩に合わせて、全身を震わせた。足音はゆっくりと、しかし確実に、クローゼットへと近づいてくる。彼女の歩みが止まった瞬間、悠一の息も止まる。

「…誰かいるの?」

その声は、まるで悠一の心の中に響いたかのようだった。冷たく、静かで、まるで一瞬の間にすべてを見透かされたかのような感覚に襲われる。悠一は固まった。息も止め、目を閉じて無音の世界に浸ろうとした。しかし、恐怖と緊張が彼の体を支配し、どうしてもそのままでいられなかった。悠一の感情とは裏腹にクローゼットのドアが、ゆっくりと開く音がした。

悠一の目の前に、彼女の顔が現れる。


「まさか、あなたが…」






彼女の声がさらに低く響く。






「待ってたよ」





その言葉は予想していたものではなく、悠一の胸を冷たい手で掴んだような感覚にさせた。彼女は、まるで悠一がここにいることを最初から知っていたかのように、悠一の存在を察知していた。目を開けることができない、ただ静かに彼女の言葉に耳を傾けるしかなかった。

彼女の瞳はどこまでも冷たく、しかし、その奥に不思議な輝きを宿している。それは、まるで悠一を何度も見つめていた深淵のような目だった。

悠一は言葉を失った。恐怖で声が出せなかった。その目を見つめることさえできない。動けない。身動きひとつできず、ただその場に縮こまるしかない。

「私はあなたが来るのをずっと待ってた。」

彼女の唇が静かに動く。声は冷たく、どこか遠くから聞こえてくるように響いた。

「ずっと…あなたが私を見ていたように、私もあなたを見ていたの」

悠一は、その言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。何かが、彼の中で壊れたような音がした。彼女の言葉のひとつひとつが、彼の心を引き裂くように響いていく。

「あなたが見ていることも、私は知っていたわ」

彼女は悠一を見下ろすように言った。その声は静かに、だが確かに悠一の内側に入り込み、もはや逃げられないことを。

悠一はようやく、彼女の顔を見上げることができた。彼女の微笑みが、まるで暗闇からゆっくりと浮かび上がってくるようだった。その表情は、決して優しくはなく、むしろ冷徹で、どこか哀れみを含んでいるようにも感じられる。

「もう何度か忘れたけれど、あなたの家に何度もお邪魔しているの」

彼女が囁いたその瞬間、悠一の心に、何かが深く刺さった気がした。背筋が凍るような感覚。あまりにも近すぎて、彼女の存在が自分の中に染み込んでいくような感覚が広がる。

「あなたの部屋、机の上の物、いつもどんな風に過ごしているか、全部見てきた。最初はただの興味だった。でも気づけばあなたと同じように…私はあなたをずっと見ていたわ。何日もの夜を一緒に過ごしていたのよ」

息が詰まりそうだった。恐怖と興奮、どちらとも言えない感情が交錯して、悠一の体は震え始めた。だが、その震えをどうすることもできず、ただ彼女の目を見つめるしかなかった。

「これから、どうなると思う?」

彼女が笑みを浮かべながら言った、その言葉の裏にある暗い意味が悠一の胸に突き刺さる。

「あなたと私、どちらが先に壊れるか…」

悠一はその瞬間、全身を支配する恐怖と、同時に感じるどこか解放されたような興奮の狭間に引き裂かれながら、ようやく答えを出さなければならないという感覚に包まれていた。

1/29/2025, 12:00:13 PM