タイトル:どうしてこの世界は
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彼は気がつくと、白い部屋の中にいた。
壁も天井も床も、すべてが真っ白だった。まるで空間に色という概念が存在しないかのようだった。時計も窓もない。空気はあるが、風も匂いもない。音も、ない。
「……ここは、どこだ?」
声に出してみても、反響はなかった。それどころか、自分の声すら、まるで吸い込まれるように消えていく。まるで、彼の存在自体がこの空間にとって異物であるかのようだった。
彼は記憶をたどろうとした。だが、名前が思い出せない。年齢も、仕事も、家族も——すべて、霧の中だ。
唯一、頭の奥で響いていた言葉があった。
「どうしてこの世界は——」
何かを問う言葉のようで、しかし終わりが見えない。どうしてこの世界は……なんなのだ? 不完全なのか? 作られたものなのか? あるいは——偽りなのか?
突然、床に一本の線が現れた。黒い糸のように、白い空間を切り裂くように伸びていく。それはまるで誘うように、彼の目の前にルートを描いていた。
彼はためらいながらも、その線に沿って歩き始めた。何もない空間で、それは唯一の「導き」に見えたからだ。
歩いているうちに、周囲が少しずつ変化しはじめた。白が灰になり、灰が黒へと染まる。やがて彼は、鏡のように反射する黒い壁の前に立っていた。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
見知らぬ男。冷たい目をした、しかしどこか懐かしい顔。その男が、鏡越しに彼へ語りかけた。
「君は問いを抱いた。『どうしてこの世界は』と。しかし、その問いに答えるには、まず君が何者かを知らねばならない。」
彼は思わず口を開いた。
「僕は……誰なんだ?」
男は笑った。それは悲しみを孕んだ、あまりにも人間的な笑みだった。
「君は設計者だよ。この世界を作った者だ。そして同時に、破壊者でもある。」
「……僕が?」
「そう。この世界は、君の問いから始まった。そして、君の忘却によって壊れた。君が問いを忘れ、目的を見失ったとき、世界は空っぽになった。」
彼は震えた。空虚が、身体の内側から広がっていく感覚。
「でも、まだ間に合う」と男は言った。「思い出すんだ。なぜ、君はこの世界を作ったのか。なぜ、問いを抱いたのか。」
そのとき、彼の中にひとつの映像が走った。
青い空。花の咲く丘。笑う女性。風に揺れる彼女の髪。そして彼女の言葉——
「どうしてこの世界は、こんなにも美しいのかしら」
——ああ。
彼は、かつて彼女のために、世界を創ったのだ。すべてを忘れてしまうほどの痛みの中で、それでも彼女の言葉だけは、心の奥底に残っていた。
その瞬間、空間が光に包まれた。
白は、もう空虚ではなかった。温もりのある光、生命の息吹。彼の足元には、再び花が咲いていた。
そして、声が響いた。
「問いを抱く者よ。ようこそ、創造の原点へ。」
彼は微笑んだ。
「もう一度、はじめよう。」
——世界は、問いから始まる。
そして、その答えが、世界を創る。
(終)
6/10/2025, 2:34:01 AM