『凍てつく鏡』
彼女のいない自宅に帰宅した深夜。
歯を磨いているときに鏡が汚れていることに気がついた。
彼女の美しさは寸分違わず映されてしかるべきである。
薄汚れた鏡にそっと手を置いた。
1日中、家主が不在のまま放置された鏡は、ひどく凍てついている。
仕事も忙しないうえに、彼女がいない喪失感も相まって、つい、家事が疎かになってしまっていた。
ホコリの溜まった部屋に彼女を住まわせるわけにはいかない。
手始めに、洗面台の掃除に取りかかった。
クエン酸スプレーを作り、洗面台の鏡にまんべんなく吹きかける。
ラップを丸めて汚れをこそぎ落としたあと、水拭きをした。
最後に、マイクロファイバークロスで丁寧に水分を拭き取れば、鏡はピカピカになる。
鏡に映るのはくたびれた俺の姿だ。
せっかくきれいに磨いた鏡も、こんな冴えなくて幸の薄そうな男を映し出すのは不本意だろう。
「鏡よ、鏡。世界一かわいい俺の妻を映しやがれ」
鏡が俺の独り言に応えることはないし、天使級の美しさを誇る彼女の姿を映し出すことはなかった。
彼女は順当に試合を勝ち進んでいる。
家にいないという現実は寂しくもある反面、彼女が誰よりもきらめいている証だった。
競技に人生をかけている彼女の邪魔なんてできるはずがない。
がんばれ。
自分の左手の薬指に嵌められている結婚指輪に、祈るようにキスをした。
12/28/2025, 2:53:47 AM