絡みつく糸を解いていく。
意味のない行為だ。何故ならば、解いた先から糸はうねり、互いに絡まり合っていくのだから。
ただの悪あがき。それでも諦めきれずにこうして糸――人には見えぬ、血のように赤い糸を解き続けていた。
この体に絡みつく、いくつもの糸をすべて解いた時、初めて自由になれるのだと。それだけが唯一の希望だった。
「――時間か」
アラームの音。顔を上げて息を吐く。
視線を向ければ、解かれた左足の糸。しかしその先端は意思を持っているかの如く右足へと絡みついている。
緩く頭を振って、鳴り続けるアラームを止め起き上がった。
雨が降り続いている。
重く沈んでいく気持ちを留めるように、強く傘の柄を握る。
傘を打つ雨音が煩わしい。眉を寄せ、無心で道を急ぐ。
周囲には誰もいない。雨音以外の人工的な音は、何一つ聞こえない。それが何故なのかを理解して、重くなる気持ちに嘆息した。
「――っ」
急ぐ道の先。男の足が見えた。黒一色の、影のような男の足。
息を呑んで、立ち止まる。傘を深く差し直し、男を避けて道を迂回する。
引き返す事は疾うに諦めた。戻った所で男は離れない。視界に入れぬまま男の気配を感じているよりは、こうして視界の隅に男を入れている方がいい。どんな選択をしようと、結果は何一つ変わらないのだから。
男がゆっくりと動き出す。男のつま先が常にこちらを向いている事に顔を顰めながら、半ば諦めの気持ちを抱いて前を見た。
それが誤りだった。
ばしゃん、と水の落ちる音。
はっとして男へと視線を向ける。だがそこに男の姿はすでになく。
傘を持つ腕を掴まれ、その弾みで傘が手を離れて地に落ちた。
「主」
無感情な声が、鼓膜を震わせる。掴まれた腕を解こうにも男の力は強く、離れない。
「主」
「止めて!私は主なんかじゃない」
違うのだと、首を振って告げても、男の反応はない。
このやりとりは、幾度目だろうか。逃れようと藻掻きながら、思考の片隅で考える。
始まりも雨の日だった。それだけは覚えている。雨以外の日に、男と出会った事は一度もないのだから。
「主」
男が呼ぶ。腕を掴む手とは逆の手が胸元に伸び、何かを掴むように握られる。
「――ぁ」
それだけで体が硬直する。腕を掴む手が離れても、もう指先ひとつ動かせない。
気づけば、男の手には濃紫の細い糸。己の胸元から伸びるそれに男は恭しく唇を触れさせて、そのまま静かに跪いた。糸を解いたばかりの左足に触れられる。男の胸元から伸びた赤黒い糸が足に絡みつき、男と繋がれた。
「我が罪は、主と共に――どうかお赦しなさらぬよう」
「っ、いやだ。解いて」
「なれば断罪を。我が罪を、他でもない主の手で裁くのです」
「そんな事知らない!もう許して、お願い」
男に懇願するも、聞き入れられる事はない。
すべては無駄なのだ。初めて男と出会った時から繰り返される言葉。増え続ける四肢に絡んだ赤い糸。何もかもが変わらない。
己の言葉は、もう男には届かないのだ。人でなくなった男には、糸を繋ぐ行為以外は、すべてが些事なのだろう。
「主」
男は立ち上がり、手にしたままの糸を撫でる。幼子を慈しむかのような優しい手つき。だがそれは体の内側から鋭い痛みを生じさせ、漏れ出る悲鳴を唇を噛みしめる事で必死に殺した。
「主。赦すなど、二度と言われるな。我が裏切りを、憐れむな」
淡々とした、抑揚の薄い声音。痛みに耐えながらも見上げた男の表情もまた、浮かぶ思いは何も見えず。
だが降り頻る雨のせいだろうか。男の目に悲痛と悼みが浮かび、沈んでいく。そんな気がした。
男の手が糸を離す。苛む痛みから解放され、力が抜けて崩れ落ちた。
「なんで」
荒く呼吸を繰り返しながら男を見上げ、問う。男は何も答えない。暫しこちらを見下ろし、不意に視線を逸らすと落ちた傘を拾い上げた。膝をつき、力の入らない己の手を取ると、傘の柄を握らされる。
傘の内側で交わる男の目が、初めてはっきりと歪んだ。
悲しげに、苦しげに。目を伏せる。
「――もしもあの日。貴女様が我が裏切りを責め立てていたのならば。理不尽に下される断罪を、拒絶したのならば……あの前夜。涙一つだけでも我が前で見せて頂けたのならば、貴女様を連れてどこへでも逃げ果《おお》せる事が出来たでしょうに」
泣くのを耐えるかのような響き。男はそれ以上は何も告げず手を離し、立ち上がる。
音もなく去って行く男の背をただ見つめ、ふらつきながらも立ち上がる。
男が雨に紛れて掻き消えた後、詰めていた息を吐き出した。
「そんな事、出来る訳がないだろうに」
消えた男の背に向けて、小さく呟いた。
増えた糸をもの悲しい思いで見つめ、緩く頭を振って歩き出す。
遠い昔、己が男の主であった頃の記憶を巡らせながら。
決して良き主ではなかっただろう。何せ齢十三の小娘が相手だ。武人である男にとって、戦にも出られずただ小娘の隣で控えている日々は、苦痛でしかなかったに違いない。
男が何故、己の近侍としてあったのか。男の裏切りにより、初めて知る事が出来た。
男の一族で出奔があり、男は忠義を示すために妻子を人質として差し出していたという。野心に駆られた重臣が、笑いながら言っていた。
妻子を戻すための裏切り。
男は何も言わなかった。そんな男に、己が言えるのはただ一言だけだった。
――なれば、すべて受け入れるしかあるまい。
仕方がないと笑う。
男を知ろうとせず、男に見合う主になろうとした愚かな己に許されたただひとつの選択肢。男を解放する唯一の手段が己の死であるならば、それ以外に何を選択するというのか。
否、それすらただの建前だ。本当はずっと終わりを望んでいたのだから。父が急逝し、受け継ぐ事になった立場。血を繋ぐ意味しかない、政略的な婚姻。
己を取り巻くすべてから逃げたくて仕方がなかったのだ。
最期の日。雨が降っていた事だけを覚えている。
次第に勢いを増す雨。磔にされた己の表情を隠してくれたのがありがたかった。
裏切りの悲しみも、死への恐怖も。そして重責から解放される安堵も、何もかもを隠して雨は降り続けた。
それ以外は何もない。家臣だった者らの声や男の表情など、何一つ記憶に残ってはいなかった。
だからこそ不思議に思う。己は逃げるために受け入れた。ただそれだけだった。それなのに、男は赦すなと繰り返し己に告げる。己には赦した記憶もないというのに。
息を吐く。四肢に絡まる糸を視界に入れぬよう、顔を上げて家路を急ぐ。
男の罪だという血のように赤い糸は、その実己への罰だ。糸は己を守り、命を留め続けている。男が解かぬ限り、己に終は来ないのだろう。
裏切りという名分に甘え、与えられた責を放棄した己に与えられた罰。逃げる事も、知らぬと嘯く事も許されない。
「ごめんなさい」
誰にでもなく呟いた。
罰だと知りながら、家に戻れば糸を解いていくのだろう。
その先にあるだろう、自由を求めて。
それが男との――幼心に恋焦がれ、憧れた唯一の光との別れを意味するのだとしても。
焼け落ちる屋敷を一瞥し、男は一人歩いて行く。
背後から聞こえるのは、炎が爆ぜる音だけだ。男の主であった小さな少女が必死で守ってきたものは、何もかもが焼けてなくなってしまったのだ。
当てもなく歩きながら、男は少女の最期の姿を想う。
穏やかに微笑みを浮かべていた。すべてを受け入れ、赦して少女は一人で逝ってしまった。
少女を喪った今の男には何もない。妻は戻ってきたその日に子を託して離縁をした。武人としての誇りも、裏切りのその瞬間から消えてなくなった。
何より、守る者がいないのだ。幼いながらに聡明で、人前では涙ひとつ流す事のなかった男の主。最期まで、男に心の内を見せる事はなかった。
恨み言でも、泣き言でもいい。男は少女の本心が知りたかった。裏切りという手段を取りながら、男は少女の忠臣でありたかったのだ。
だが少女は男に何も言わず。ただすべてを赦して、男の目の前で磔にされた。
――致し方なし。
少女の言葉が、男を苛む。
男の大罪を、赦してしまったその言葉。そのたった一言で、男の今までの少女に対する忠義は否定された。男の存在など、少女に取っては赦してしまえるほどの価値しかないのだと告げられた気分であった。
諦め受け入れて、大罪を笑って赦してしまう少女の寛容さに、男は憎しみすら抱いた。激しい憎悪と、その裏に揺蕩う悲哀の感情。それらを抱いて少女の最期を見届けたその瞬間に、男は人から逸脱してしまった。
不思議と、男は人ならざるモノへ成ってしまった事を後悔してはいなかった。人であった頃の激情は凪ぎ、残るのは少女に対する忠義のみだ。
人として亡くなった少女は、この先いつかどこかで新しく生まれ出ずるであろう。再び巡り逢うその時に、二度と離れぬように互いを繋ぎ、その身を守り通す。それだけが男の願いだった。少女を敬愛し忠臣である事を求めた男にとっての、唯一の救いだった。
忠義を尽くせば、少女はいつか男の裏切りを赦せなくなるだろう。そして男の罪が少女の手によって断罪された後に、ようやく男の罪が本当の意味で赦される気がするのだ。
泣いて責め立て、男に傷をつけて。その行為にまた泣きじゃくる少女の肩を抱き寄せて、二度と裏切る事はないと誓う。聡明ではあるが、優しく純粋な幼い少女だ。誓いを立てれば、二度と男を手放す事はしないだろう。それこそ永遠に。
その時を想いながら、男は自身の罪で糸を紡ぐ。男と少女を繋ぐに相応しい、血のように赤い糸を。
男の紡いだ糸に繋がれた少女が男の罪を断罪し、赦された後で互いに寄り添い、永遠を共にする日を願いながら。守るというその行為が、その実少女を二度と失わぬため側に繋ぎ止めるという、男の執着であると心の奥底で知りながら。
男は一人歩いて行く。
いつしか空は陰り、雨が降り始めた。
在りし日の少女を奪った憎き雨。
「二度と奪わせるものか」
立ち止まり、空を見上げて腕を伸ばす。その腕に擦り寄るように、雨粒が優しく濡らしていく。
「主の側に侍るのは、俺だけでいい」
男は笑う。腕を下ろし歩き出す。
雨を従え、男は少女を求め彷徨い続ける。
男から少女を奪った雨に、少女との永遠の誓いを見届けさせるために。
20250618 『糸』
6/19/2025, 1:40:29 PM