葉昨 ( はさく )

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お題【理想のあなた】
『金鯱』

神さまがサイコロを振り忘れたせいで、僕の左足の薬指は、ときどき僕の意志とは無関係に素数を刻む。
 
 トト、トトト、トトトトト。

「ねえ、それ、何の合図?」

 千晶(ちあき)がベッドの端で、爪を研ぎながら訊いた。彼女の爪切りはいつも、冬の乾いた木を折るような、ひどく即物的な音を立てる。

「エラトステネスの篩(ふるい)さ。」

僕は言った。

「嘘ね。」

「もちろん嘘だよ。本当は、僕のなかの完璧な僕が、外に出たがって壁を叩いている音なんだ。彼は僕よりずっと背が高くて、確定申告を期日通りに終わらせて、セロリの筋を一本も残さずに剥くことができる。」

 千晶は爪切りを止め、冷ややかな、しかしどこか哀れむような目で僕を見た。その目は、賞味期限が三日前に切れた低脂肪牛乳を眺めるときのものに酷似していた。

「あなたの理想って、ずいぶん事務的なのね。」

「事務こそが世界の骨組みだからさ。完璧な事務は、芸術よりも美しい。」

 僕は二十八歳で、小さな翻訳事務所の片隅で、取扱説明書を日本語にする仕事をしている。スウェーデン製の高圧洗浄機や、台湾製のスマートウォッチ。彼らが語る歪んだ英語を、日本の家庭に馴染む実直な日本語に直す。それは僕にとって、世界を少しずつ脱臭していく作業に似ていた。

 でも、僕自身の人生は、一向に脱臭されなかった。

 僕の部屋のクローゼットには、着ることのない仕立てのいいスーツが三着、出番を待つ役者のように肩を並べている。イタリア製の生地。触れると、指先から品格が染み込んできそうなほど滑らかなウール。それを着て、銀座のバーでマティーニを頼み、バーテンダーのネクタイの結び目の緩みを静かに指摘する​、────​それが僕の、いくつかある正しい僕の断片だった。

 しかし現実は、ユニクロのチノパンのポケットに丸まった、いつのものかも分からないツルハドラッグのレシートの塊を愛おしく指先で弄っている僕だ。あの薄汚れた、感熱紙の丸まり。あれを捨ててしまったら、僕の輪郭は本当に消えてしまうのではないかという、奇妙な脅迫観念が常にあった。

 思考が、夜の闇の中で不規則に跳ねる。

 なぜ、僕はここにいるのだろう。
なぜ、あのクローゼットのスーツは、僕を拒絶するように冷たいのだろう。

 理想。

その言葉は、口に含むと、古い硬貨のような味がする。血の味に似た、金属の拒絶。
 完璧でありたいと願うことは、現在の自分に対する最も静かなテロルだ。

 ある火曜日、ポストに一通の手紙が入っていた。差出人の名はなかった。ただ、上質な和紙に、万年筆のブルーブラックのインクで、こう書かれていた。

‘’木曜日、午後三時。植物園の温室、サボテンのエリアで、あなたを待っています。あなたの、本来の衣服を用意して。”

 筆跡は、僕のものに酷似していた。いや、僕が「こう書けたらいいな。」と常々願っている、完璧な右上がりの、知的な筆跡そのものだった。

「罠よ。」

千晶は僕の淹れたコーヒーをすすりながら言った。僕の淹れるコーヒーはいつも、ほんの少しだけ酸味が強すぎる。

「誰の罠?」

「あなた自身の、底なしの退屈が仕掛けた罠。」

「退屈は罠を作らないよ。退屈が作るのは、ただの埃と、意味のないため息だけだ。」

「じゃあ、行くのね?」

「行くさ。クローゼットの住人たちが、そろそろ日光浴をしたがっているからね。」

 木曜日。
 僕は三着のうち、最も深いネイビーのスーツを選んだ。鏡の前に立つと、首から下だけが、どこかの国の若い外交官のようだった。しかし、そこから上にある僕の顔は、寝不足で、無精髭が薄く浮き、ひどく場違いに見えた。頭部だけが、別の安価な雑誌から切り抜いて貼り付けられたコラージュのようだった。

 植物園の温室は、熱気と湿度で満ちていた。
 スーツのウールが水分を吸って、じっとりと重くなる。額から汗が流れ、高級な生地の襟を汚していくのが分かった。それだけで、僕の完璧さはひび割れていく。

 サボテンは、どれも歪で、暴力的だった。自己防衛のためだけに尖らせた無数の針。彼らには、理想などという甘美な病気は無縁に見えた。ただ、そこに在る。その傲慢さが、少し羨ましかった。

 背後で、衣服が擦れる微かな音がした。シルク混のウールが立てる、冷徹で上品な摩擦音。

 振り返ると、そこに僕がいた。
 しかし、それは鏡に映る僕ではなかった。

 彼のスーツには、一筋の皺もなかった。この蒸し暑い温室にいるというのに、肌は陶器のように滑らかで、汗一滴かいていない。ネクタイのノットは完璧な正三角形を描き、靴はまるで光を自ら発しているかのように輝いていた。

 男は何も言わなかった。

 ただ、静かに僕を見下ろしていた。その瞳は、澄んだ秋の空というよりは、高度一万メートルから見下ろした極東の海のように、冷酷に青かった。
 彼はゆっくりと右手を挙げ、僕の胸元を指差した。それから、自分の胸元をトントンと二回叩いた。

「代われ。」

 言葉にはならなかったが、彼の唇の動きがそう告げていた。

 男はポケットから、小さな銀の、僕がずっと欲しかったハイエンドのスマートウォッチを取り出し、僕の目の前に差し出した。その画面には、僕のスマートウォッチが告げている「15:03」ではなく、一秒の狂いもない、宇宙の標準時が冷たく刻まれていた。

 僕は一歩、彼に近づいた。
 彼の靴の、あまりの眩しさに、急激な吐き気が込み上げてきた。
それは美しさに対する感動ではなく、一切の排泄物や垢を許さない、病院の手術室のような無菌室の恐怖だった。

 彼の肌があまりにも綺麗すぎて、僕は自分の指先にある、爪切りで切り損ねたささくれの痛みを無性に愛おしく感じてしまった。この痛みが、チクチクとするこの出来損ないの肉体の感覚こそが、僕の所有物なのだ。

「君の淹れるコーヒーは、どんな味がする?」

 僕は訊いた。
 男は答えなかった。ただ、僕の顔をじっと見つめた。その表情には、軽蔑すらもなかった。ただ「なぜそんな無意味な質問をするのか。」という、機械的な空白だけがあった。

 彼はただ、僕の安物のネクタイに手を伸ばした。その指先は驚くほど冷たく、生肉の匂いが一切しなかった。彼は僕の喉元を締め上げ、僕という存在をその完璧な布地の中に吸い込もうとしていた。

 その瞬間、僕は男の完璧なネイビーの上着の袖を、汗でぬるついた僕の手で思い切り掴んだ。
高級なウールが、僕の指の形にじわりと歪み、湿った皺が刻まれた。

「……汚してすまない。」

僕は言った。

「でも、僕は僕のこの、爪の間に詰まったスマートウォッチの安っぽいプラスチックの削りカスを手放したくないんだ。あれは僕が生きているという証拠だから。」

 男は、僕に掴まれた袖口を冷ややかに見つめた。
 彼が初めて、小さく舌打ちをしたような気がした。その瞬間、彼の完璧な輪郭が、温室の湿った熱気の中に、まるでインクが水に滲むように急速に崩れていった。最初から、そこにはサボテンの鋭い針の残像しかなかったのかもしれない。

 僕は温室を出た。
 外の空気は、少しだけ涼しかった。
 ネイビーのスーツはすっかり汗と湿気で台無しになり、ずっしりと肩に重かった。しかし、その泥臭い重みこそが、今の僕の肉体に驚くほどしっくりと馴染んでいた。駅へ向かう途中、僕は自動販売機で缶コーヒーを買った。ひどく甘くて、人工的な香料のにおいがした。でも、それは確かに、僕の喉を冷たく潤した。

 アパートに戻ると、千晶が相変わらずベッドの端で、今度は文庫本を読んでいた。

「早かったのね。」

「ああ。サボテンを見てきただけさ。」

「スーツ、台無しじゃない。何してきたのよ。」

「クリーニング屋に、余計なお金を払いたくなっただけさ。」

 僕は上着を脱ぎ、ハンガーにかけた。型崩れしたその布地は、もう僕を拒絶していないように思えた。

「ねえ。」

千晶が本から目を離さずに言った。

「何だい?」

「あなたの左足、さっきからずっと、奇数を刻んでるわよ。」

 僕は自分の足元を見た。
靴下の中で、薬指が静かに動いていた。

 ト、トトト、トトトトトトト。

 それはもう、素数ですらなかった。ただの、名前のない、不規則なリズム。

 僕はキッチンへ行き、少しだけ酸っぱいコーヒーを淹れるために、ヤカンに水を注いだ。


世界は相変わらず、僕の翻訳を待っている。

5/21/2026, 7:50:14 AM