心の健康を保つため。
その理由のために、画面の向こう側にいる見ず知らずの人を仮想敵として、見下し、蔑み、罵詈雑言を吐き捨てる。
他人の心の健康を害して、瞬間的に自分を取り戻す。
そのために小さい言葉の嵐雲を呼び寄せて、拳にまとわりつかせ、それを格闘グローブにする。
青と黒の混じった悪雲のグローブ。
それを装着すると即座に朱に染まる。
血で血を洗う行為に寄せるように……
泡立つ雷の欠片の嫌な音がバリバリと、また自身の掌にもチクチクと、刺激を感じるが。
全部無視。
試合の始まるチャイム。甲高くカーン、と鳴る。
両者、取っ組み合い、……のはずだったが、仮想敵同士は口先だけのプロレスばかり。
ほんの1メートルに相手がいるというのに、赤いグローブを外さず小さな小さなスマホ画面をいじくりまくる。
直接言わず、悪態をつく文字に起こし、送信。
相手も似たようなモンスターである。残念ながらグローブを外さないほどの低知能な人型モンスターである。
文字を見て、苛立ちを募らせている。
何だとてめぇ。舐めてんのか!
俺らのファンが黙っちゃいねーぞ!
おい、やっちまえ!
そんなこと、誰も言っていない。
幻聴だ。幻覚だ。
SNSの熱気が悪さをした。
砂上楼閣の幻影。気温はお盆なのに最高気温37℃。
リング内に土俵のようなどすこいな雰囲気はひと欠片も見当たらないが、スプリングの良いプラスチック製の台でも、外にいるような気分になる。
場所は屋内で、クーラーでガンガンに冷やされているはずだが、まったくもって平熱にならない。
高熱に浮かされ、光熱費にも浮かされる。
幻聴が幻影の鼓膜に触れたか。気が狂ったか。
観客席からも新手の乱入か?
一人がファーストペンギンならぬ特攻隊員を務め、その後はどうどうと。
馬や鹿が奇声を上げて、大量の小魚が大群で陸に上がったような感じ。
場違い感が甚だしい。
ピチピチと身体をねじ曲げ、反対にも素早く。
バタバタ、ドタドタ。
怒声、狂気、暗雲。……混じって悲鳴。
バブルスライムの粘液から泡立つ。
病人の鳥肌のように、健康を侵し、陸を侵食し。
表面を広げ、表面積を広げ。
試合と観客の四角形に仕切られた境界線をを押し曲げ、サメのように引きちぎった。
耐えきれなくなったリングの紐は、ゴールテープを放すように素早い。
またたく間に、試合の意味を無くし、あちこちで乱痴騒ぎに。そのような、くっだらないイベント。
年齢不問。
しかし、精神年齢は大いに低下するようである。
大の大人が子どものように……
レフリーはやるせなく首を回した。
観客席ってこんなにも広いんだね。
正体不明の覆面レスラーのごとく、赤と白のリングにおどり出て、相手を罵倒している。
どこにいたんだこいつらは。
あんたら、戦績は?
まだ、戦ったことがない?
どころか、社会経験すらもない、だって?
なら、すっこんでろ。
スマホの買い方すらわからないくせに。
何だと?
茶化した陽気の実況解説席が、的外れな会話を繰り広げ、それに関して「なんだコイツ、それでお金もらってんのか!」と輩が湧いてでて、収束は延期。
いつからか、始まりを告げたはずのチャイムは、終わりを示す連続音に変じていた。
が、何度も鳴らしても興奮冷めやらぬどころか、火に油を注ぐようでもある。
こういった「ものいい」は、人斬り抜刀斎に頼むしかあるまい。
幸い今週はお盆だ。
お盆は、昔のじいちゃんばあちゃんが現世に現れる古きよき文化である。
さあ。僕のすさんだ感情ごと、斬り伏せてくれ。
……。
――静寂。
8/14/2024, 9:55:09 AM