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雲り

前説

昨日のお題よりは随分落ち着きがあり、情緒性のあるお題で有り難い。

「曇りではなく雲り」なので、天気のことではなく、「雲」そのものを連想した。この時期なら今の時代は紫雲たなびく霞雲なんて風流なものでもなく、アメリカナイズされた御子様達は
風流よりも、花粉と黄砂とPM2.5ですわね(笑)困った微粒子は、いつもあの山越えてやって来る。

四十年くらい前の弥生3月の雲は新生活への期待と不安が入り混じった小娘の心を実によく表現していたけど。ふんわりと温かい、けれど、どこかモヤモヤとした先の見透せない不安が過ぎっては、柔らかな雲の合間に吸い込まれるように消えてゆく。そんな、ふわふわとした夢見心地と、先の見えない物語のはじまりのような不安を乗せて、1986年の春は明け来るのであった。

まだ、瀬戸大橋も、明石海峡大橋も架かっておらず、鳴門海峡大橋がようやく架かった次の年、その頃は都会って遠かった。勿論、都会に憧れた若者たちは、船で都会デビューして、飛行機で帰って来るステータスを夢見ながら船出する訳だが、今よりもずっと都会は遠く、その分夢も、その裏返しの不安も、都会へ出て暫くして須らく味わう望郷の想いも、今よりずっと大きく、はかり知れなかった。

まだ、この3月20日過ぎ頃までは、心には、風は温かで低い雲が立ち込めていた。

慌ただしく何時もの調子で追い出しにかかる祖母は、この気持を分かっているのか、いないのか、その頃の小娘には分からなかった。今ならはっきり祖母の気持も分かり、お礼のひとつも言えたろうに、神様は意地悪で、そんな心の成長を小娘には、まだ与えてくれない。ただ、まあ今の若者のようにやっぱり、若い頃とは自分の事ばかりなのである。それが正直なところだと今しみじみと思う。親がかりの保護者がかりの脛齧り。そんな、青二才が(男だけでなく女もね)分かったような口利くのは四十年くらい早くてね、自分のことで手いっぱいで普通で、それでも独りで立とうとするから、その気持ちそのままに、鶯がまだ下手な声で鳴く頃のなんだよ。空は温かく、そして雲は低く立ち込めてイイんだよ。そんな頃を越えなきゃならんのさ人は、そんな頃を越えなきゃ、何にも解らないんだと思うね。


「雲り、アーデルハイド」

アーデルハイドは一歳で両親を亡くし、母方の叔母デーテに預けられる。しかし、デーテはアーデルハイドをアルプスの山深い、田舎の山小屋に独り住む変人の異名を持つ気難しい祖父オンジに預け、自分は一人都会へと働きに出てしまう。アーデルハイドはハイジと呼ばれ、アルプスの大自然に抱かれて、仔山羊や羊飼いの少年ペーターと親しくなり、独居の気難し屋オンジとも心を交わし、のびのびと成長してゆくのである。

アルプスの空は広く青く雲は近く、オンジがこしらえてくれた大きなブランコに揺られていると、天の空の雲に手が届きそうで、時折ハイジは、雲に乗り風に流され旅をするのである。小鳥たちがハイジの元にやって来て、天に召された父さんと母さんのところにハイジの乗った雲を運んでくれる…ところで、ピーちゃんに顔を突かれ、目が覚める。天までとどくほど勢いよく揺れていたブランコはいつの間にか止まっていて、夕焼けがハイジの頬を林檎のように染めていた。やがて低い雲は流れ雲り空は速い勢いでお日様を山の彼方へ運んで行った。
ハイジを呼ぶオンジの声が届く。

「今日も、楽しいことが、いっぱいあったわね、ピーちゃん!」ハイジはブランコから飛び跳ねるようにおりて、裸足のままで駆けて行った。

幼少期を自然と朴訥とした人々の愛に育まれて育った少女ハイジもやがて、都会に出て行くことになった。叔母のデーテが都会からやって来て、アーデルハイドをゼーゼマン家と云うフランクフルトでも名門家である家に連れて行き、そこに居る車椅子のお嬢様の遊び相手とお勉強仲間として住み込ませると決めて来たのである。勿論、ペーターは嫌がり寂しがり、ハイジも最初は嫌がったが、ハイジにキチンとした教養をと望んだオンジに説得され、最初は渋々けれど、目の不自由なペーターのお婆さんに聖書を読んであげれるようになるんだと云う優しい夢を持ちフランクフルトへと旅立つのであった。

幼気な少女が、フランクフルトの他人の家で夢遊病になりながらも、耐えて車椅子の少女クララに寄り添う姿は、身を与え何かに尽くしてこそ寄り添うと云う真心だと教える。無垢な少女にしか出来ない優しさが描かれていて涙する。だがそんな反面ハイジは天真爛漫で無垢な屈託のない少女が故に、破天荒であった。

ハイジに、直角にしか進めないフェミニズムの旗手であるような、ゼーゼマン家の車椅子の少女クララお嬢様に仕える御抱え家庭教師ロッテンマイヤー女史は、冷ややかに厳しくあたり「アーデルハイド!」と呼び小間使いのように扱ったが、ハイジは自ら自然に抱かれて培った生きる力と知恵と持ち前の屈託のなさと率直さで、知識とプライドで頭でっかちのロッテンマイヤー女史に、本当の生きる力を教える。それは、クララにも、ゼーゼマンにも、頭でっかちなロッテンマイヤー女史にもやがて伝わり。
クララは自分の脚で独り立ち歩くのであった。

「アルプスの少女ハイジ」に寄せて
 
         作者 ヨハンナ・スピリ

         粗筋 作  心幸


「雲り、四十年前のハイジ」

道は はるか遠く何処までも続き 
やがて天と繋がる
まだ 見ぬ景色に雲は低い 
けれど 温かく上着を1枚脱いで
肩に掛け空を見上げ流れる雲を追いたくなるような そんな気分 
肩先に舞い飛ぶ小鳥たちを呼びとめ歌いたくなるような そんな気分

18才春  空雲り


              心幸


令和7年3月23日


本日の後書き

他人に指した人差し指は自分に。

人に引けよと言う前に 引きなされ
雲に歌うは 下手な鶯   

              おそ松さん

センセーと 呼ばれるほどの 馬鹿でなし
              
               堀裕嗣 
         
なんで、人差し指差す人間てタイプ似てんだろね。あんたがやるからやられんだろ、解ってないね笑笑  高学歴なんだろ?あんた。神童天才なんだろ?あんた。

神様は残酷で天使も残酷で、人間は嫌い自分は何時も被害者の他責思考、人を変えたきゃ自分が変われ(笑) 雲りがないんだろ?あんた。笑笑 相変わらずキショイねぇ。 
チュンチュンユンユン雀の合掌団
🌾🦜🌙しゃん

文豪気質はネガティブ気質?笑うとこかい?ただの厨二病センセーじゃんか笑笑 
いつまで思春期〜ぃ。

大昔、駅で配られていた同人誌や宗教の勧誘みたいな一行飛ばしや、縦横斜めレイアウトが個性ですみたいな詩が、厨二病大センセー様で面白すぎて、椅子蹴飛ばして野菜踏んづけたら潰れた可哀想に🌾🦜🌙 詩を読んだ感じマインドなんとかされやすそうだとお見受けするわ。お気をつけてね、お大事に(笑)ついに切れたの?一番歪んでるの優しくありたい、寄り添うのが得意なふりして私に寄り添えな🌾🦜🌙のあなたじゃなくて(笑)

人に指した人差し指は自分に向けなさい。ブーメランなんでしょ。

何度も言うけど、あなたが嫌いでも全然平気と言われると思う、その相手が大人ならば。それは私が「bye-bye」なんて赤ちゃん言葉を、いい大人が可愛い子ぶって使うのが嫌いなのと同じで、私ごときが嫌ったところで、その言葉は、なくならない。あなたの嫌いも同じこと、いくらあなたが嫌っても、そのものには、どこ吹く風、あなたが虐め体質や独裁者でもない限り。だから、好きや嫌いほど自分勝手なものはないと心得よ、お前の好き嫌いで世の中の善悪はかれたら、エライことなんだよ笑笑
個人的な好き嫌いと、ものの善し悪しは違うのよ笑笑 
先ずは、そこから学びなさい笑笑 

家事もそうだけど何事も完璧求めちゃうから直ぐに私だけって被害妄想膨らんじゃう。昭和初期でもあるまいし、子供も一人か、せいぜい二人の家事育児に大威張り。結婚生活二十年そこそこで大先生の仲間入り。商売上手過ぎて頭下がりました笑笑ってなんの感想じゃ笑笑 てかね、取り方に良いも悪いないのよ、歪んでるも真っ直ぐもない、有るのは個人的主観的な好きも嫌い。その好き嫌いも自分勝手の自分の都合でしかなく、それに正解はなど所詮ないのよ。お互い様だってこと、だから個人的な好きや嫌いは、公の人でない大人や子供なら自由に言えるの。公の大人だと多少影響あるから好きや嫌い言うのも気遣いが必要で大変よね。好きや嫌いを大人になっても自由に大声で言える、小市民で良かったわよね(笑)

頭良いんだったら、よーく考えよう(笑) 

うん?最後ちがいませんか?誰かの心に寄り添うものを云々…。それ、前の文脈からだと普通に「私に寄り添ってくれー」って叫んでる。誰かに寄り添うじゃなくて、自分に寄り添って欲しいから寄り添うが大事と言っている。正直になろう。最後に偽善者じゃつまらない。

今日も、楽しませておくんなはれ😆
 


3/23/2025, 12:21:13 PM