「ここではないどこかへ」
揺れる電車のなかで、
僕はふと隣にいる彼女のことを考えた。
横目で見ると、彼女は何かを探すように、
ただ窓から星空を眺めている。
短すぎるぐらい短く髪を切り揃えた彼女の横顔は、
初めて出会ったときよりも、
その凛とした美しさがいっそう際立っていた。
見て、先生。
これだけ髪が短ければ、私だと分からないでしょ?
肩まであった長い髪を、
男である僕よりも短く切ってきたのは、
僕を驚かせたかったからだという。
それは嘘だ。
彼女は、全て捨ててしまいたかったのだ。
『女』としての自分も、
これまでの過去も、
そして、あの母親も。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
僕たち以外は誰もいない車両では、
電車の揺れる音がまっすぐに脳に響いてくる。
下を向いた僕の自問自答と迷いも、
かき消そうとしているようだった。
これでいい、これで良かったんだ。
彼女にとっても、僕にとっても。
すうっと息を吸い、顔を上げて彼女に目をやると
さっきまで星空を見つめていたその美しい瞳は、
僕の姿だけをはっきりと映しだしていた。
「先生、だいじょうぶ?」
一瞬の沈黙は、電車の揺れる音だけではなく、
僕の心臓の高鳴りを大きく自覚させるのに役立った。
トクン、トクンと身体の奥から
わきあがってくるこの音は、僕の瞳の中に彼女が、
彼女の瞳の中に僕がいることの幸福の音だと思った。
「だいじょうぶだよ」
僕は、今の自分でできうる限りの笑顔で言った。
そして、少しおどけた声で。
なぜかわからないけど、そうした方がいいと思ったから。
「そう?」
ほほえんだ彼女のくちびるは、少し震えていた。
大人びていると思っていた表情は、
すっかり16歳の少女に戻っていた。
ああ、そうだ、彼女だって不安なんだ。
星空を眺めていたのも、これから僕たちがどこに行くのか、
自分の頭の中で探していたんだ。
僕たちが出会ったこの街を
僕たちは捨てていくんだ。
たとえ存在を拒絶された場所であっても
二人にとってはここが今まで世界のすべてだった。
不安にならないはずがない。
僕は視線を外さないまま、彼女の手を握った。
彼女も、握り返してくれた。
それだけで、また、幸福が溢れてくる。
なんとかなる、絶対なんとかなる。
ここではないどこかに、僕たちの居場所はきっとある。
4/17/2023, 9:54:20 AM