森羅秋

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病室

 四十代の男は歩道橋の一番上から一番下まで、一気に転がり落ちた。
 不意に足が浮かぶ感覚、背中を押されたような感覚、それに驚いたためか体が強張ってしまい、為す術もなく硬いアスファルトに寝転がる。 
 ここ数年、怪我が耐えなかったが、これはまずいと思った。なんとか助けを呼ぼうと顔を横向きにする。薄っすらと開かれた目には、歩道橋から人影のようなものが去っていくのを捉えた。全身が黒い。ローブを着ているが足はないもの。
 あれはなんだ? そう思った所で男の意識は途絶えた。
 
 次に目が覚めたら病室だった。
 全身にコードが張り付き、口についている呼吸器が生命維持管理装置に繋がっていた。
 歩道橋から転落した男は一命を取り留めたものの、脳の炎症により意識障害、呼吸器障害が起こっていた。
 男はその状態の自分を上から眺めていた。しばし呆然としたあと、今の状況が理解できて顔を青くした。死の瀬戸際に立っていると頬に手を添えた。意識がないのは魂が体から抜けているからだ。
 男は体に入ろうと何度も出入りしてみた。念じてみた。
 看護師が何度かバイタルチェックをして、下の世話をして、声をかけて、を繰り返す。
 誰も浮いている男の事に気づかない。
 途方にくれた男は泣きそうに顔を歪める。するとカーテンが開いた。看護師が入ってくるのと同時に入ってきた者を見て、男は悲鳴をあげる。
 真っ黒い全身に青白い顔をした者がスィっと入ってくると、傍にあった椅子に座り、じっと男の顔を眺める。
 間違いない。あの夜、歩道橋でみたモノだ。死神だったのかと男は急いでカーテンの向こう側に隠れた。そこは集中治療室で看護師が大勢行き来している。もちろん、カーテンからそっと中を伺う男に気づいていない。
 看護師がいなくなると死神はブツブツと呪いの言葉を放つ。
 なんでいきてる。はやくしね。はやくしね、しねしね、と。
 恐ろしい声色に男は絶望を覚えた。
 死神は毎日毎日、同じ時間にくる。朝早くと夕方から面談終了時間まで。看護師がいなくなると呪いの言葉を放つ。
 何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も。
 恐怖によって男は憔悴していった。
 このままだと死神に連れていかれてしまう。嫌だ、と男は手で顔を覆って泣いた。諦めかけた男の記憶に愛する女性が浮かぶ。そうだ。妻を残して死ねない。このまま何もしないよりは。
 男は死神を追い払おうと意を決した。
 時間になり死神がやってきた。男はベッドの傍に座っている死神の前に立つと、指差しながら、あっちにいけ。絶対に死なない。とあらん限りの言葉を放つ。
 こちらに関心をみせない死神に、手応えのなさを感じ涙を流した男は、ぎゅと目をつぶり、目を開けた。視界が揺らめく。座っている黒いワンピースをきた者に向かって、掠れた声をあげた。
「ぜったいに、しぬもんか」
 死神がガタンと立ち上がる。そのままカーテンを開けて去っていった。
 やった。と安堵する男の元に看護師と医者が慌ててやってきた。意識を取り戻した。と声を上げてている。
 男はゆっくりと周囲をみる。
 生き返る事ができた。と涙を流した。
 ずっと奥さんが付き添っていましたよ。と看護師が言う。来ていましたか。と男は嬉しそうに頷く。あ、来ましたよ。と看護師が妻に挨拶をする。
 妻を見て、男は背筋が凍った。
 妻は長い髪をおろし、服は真っ黒いワンピース、黒いストッキングを履いている。青白い顔は若干引きつっていた。 
「良かった、あなた」
 妻の声で男の耳にある言葉が思い出される。 
 死神の呪いの声だ。
 その瞬間、男は全てを悟った。
 

 

8/2/2023, 1:45:38 PM